驍フが善いとか惡いとかいふ論爭がそれにともなふ。けれども要するにこの論爭は無用である。すべての劇が問題劇でなくてはならないといふ理由もなければ、一つの劇が問題劇であつてはならないといふ理由もない。劇が藝術としての目的は我々の生命を衝き動かすところにある。それさへあれば、その方法となり、材料となるものが社會問題であると否とは問ふところではない。『人形の家』には婦人問題が材料として用ひられてゐる。婦人の解放、婦人の獨立、婦人の自覺、男女對當の個人としての結婚、戀愛を基礎とした結婚、といふやうな問題が含まれてゐる。そのためこの劇が單なる藝術の力以外に廣く世界を刺戟したことは否まれない。ヱドマンド・ゴッス氏がその『イブセン傳』(Ibsen : Edmund Gosse)の中で、
『人形の家』はイブセンが始めての無條件的成功の作である。ただに世間一般の議論を惹き起した最初の作であるのみならず、その仕組及び描寫法において、イブセンが撓まざる現實的作家としての新理想を發揮した點で、その以前の作よりも遙かに進んでゐる。アーサー・シモンズ(Arthur Symons)君が「人形の家はイブセンの劇中傀儡をあやつる針金の用ひられなくなつた第一の作である。」といつたのは當つてゐる。一歩を進めては、この針金の用ひられなくなつた第一の近代劇であるともいへる。もとよりまだその後の作のごとく完全の描寫法とはいへない。事件の湊合せられる距離がおそろしく短くて、初めの幕の邊では、巧みに面白く出來てはゐるが、まだよほど實人生の不可避性と遠ざかつてゐる。しかし驚くべき最後の幕において、ノラが出て行く支度をして寢室から立ち出で、ヘルマーと見物とを驚倒せしめるところ、悶へてゐる夫婦が卓を圍み面と向つて對決する邊にくると、人をして始めて、劇壇に新しきもの生れたりといふ感をおこさせる。同時にいはゆる「うまく作つた芝居」は、俄然としてアン女王の死のやうに死んでしまつた。凄愴なまでに生の力の強烈にあらはれてゐることは、この最後の幕において驚くばかりである。昔のめでたい終局は始めて全然抛棄せられ、人生の矛盾が少しの容赦もなく出てきた。『人形の家』が非凡の演劇であつたことをあんなに突然認められたのは珍らしいことである。ノラの「獨立宣言」は全スカンヂナヴ※[#小書き片仮名ヰ、131−16]アに響き渡つた。人々は毎夜々々興奮して顏蒼ざめ、議論をしたり、喧嘩をしたり、喰つてかゝつたりしながら劇場を出た。
 といつてゐるのは、もつて、この劇がはじめてイブセンの本國で演ぜられた時、世間の問題を刺戟したことの如何に激烈であつたかを想見するに足る。ただにスカンヂナヴ※[#小書き片仮名ヰ、132−1]アのみならず、歐洲の諸國にわたつて、近代の婦人問題を刺戟した、最も有力なものの一はこの劇である。問題劇としての效果はこれで遺憾がないといつてよい。
 けれども、唯それだけでは藝術としての特權がない。その問題なり思想なりの奧から放射してゐるものがなくては、これと似た效果を生ずる一場の煽動演説と何の區別もないことになる。藝術の力はもつと根柢から發するものでなくてはならない。そもそもそれがあればこそ、一篇の『人形の家』もあれほどの刺戟力を有し得たのである。
 藝術の奧から放射してゐるものは生命の光りであり、生命の熱である。藝術は生命の沸騰そのものである。
 生命の沸騰はその個人の全人格に震動を與へて、そこに思想感情の深い覺醒を生ずる。ほとんど思想であるか感情であるかわからないほど深奧な心持を經驗する。假りにこれを説明していへば「人生を如何にすべき」「我が生を如何にすべき」といふやうな、もだもだしい心持である。この心持の中には、社會問題でなく、人生問題が包まれてゐる。人生觀の思想が暗示せられてゐる。すべての近代藝術は、この意味において思想藝術であり、問題藝術である。『人形の家』も先づこの意味において問題劇でなくてはならない。イブセンが千八百九十八年五月二十六日クリスチアニアのノールウェー女權同盟の祝賀會でした演説に、
「私は女權同盟の會員ではありません。私の書いたものには一として主張を廣めるためと意識して書いたものはありません。私は世間の人が一般に信じようとしてゐるよりもより多く詩人で、より少く社會哲學者であります。皆さんの祝杯に對しては感謝いたしますが、ことさらに女權運動のために働いたものとしての名譽をば辭退するほかございません。私は一體女權運動のいかなるものであるかをすら、實際十分に明かにしてをりません。私はこれを廣く人間の問題であるとみました。注意して私の著述をお讀み下すつたら、この意味がわかるだらうと思ひます。もとより女權問題も、他の諸問題と同じく、これが解決は望ましいことでありますが、しかしそれが目
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