て見えた。夜風が冷やかだった。東京の市街が一切の人間の悲しみと苦しみと歓びとを深い夜に包んだまま夜霧を通して下に見え、灯があか/\と人間の思慕のように空を染めていた。
「むこうのあの黒藍色が太平洋だよ」と乙彦が言った。「己は早く親爺が死ねばいいと思っているのさ。そうすればこの邸もこの家も金も皆己の心のままだからね!」
 あか/\と空に燃える都会の灯を眺めていると淋しい涙が平一郎に湧いて来た。
「そうしたらね、己だってすきな女を囲ってさ。――大河、お前が父さんの妾の世話で来たこと位は己はすっかり知っているんだからね!」
「失敬します! 僕はここにいる閑がありません!」平一郎は狂ったように屋上を駈け下り、廊下を小走りに自分の部屋へはいって襖をぴっしゃり閉めきった。
「ああ、自分はどうしよう」(獣には穴あり空とぶ鳥は巣あり、されど人の子は枕するに所なし)――熱い涙が制し切れなかった。「ああ、この感情、この真理、これは自分一人ではあるまい。自分のこの涙は万人の涙であろう。自分は自分一人の寂しさに泣いていてはならない。ああ、自分はどうなっても構わない。願わくば、今ひし/\と身に迫り感じる万人の涙のために戦おう! ああ、自分には万人の悲しい涙にぬれた顔を新しい歓喜をもって輝かすことは出来ないのだろうか。自分の生はそれのみのための生涯であり、自分の使命はそれよりほかにはない! ああ、この大いなる願いが、自分の一命を必要とするならば、自分は死ぬべき時に死にもしよう!」



[#地から2字上げ]「地に潜むもの」完



底本:「地上――地に潜むもの」季節社
   2002(平成14)年10月15日初版発行
底本の親本:「地上――第一部・地に潜むもの」新潮社
   1919(大正8)年6月10日初版発行
入力:西村達人
校正:松永正敏
2006年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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