ために厳しく懲戒処分にするがよいと思いますが――」
二人は黙していた。体操の教師は二人の沈黙からある種の反感を獲取して、もう平一郎一人でなく彼等二人に対して不快な反抗で燃えて来た。
「学校内へ自分の情婦を入れるということは許すべからざる行為です。もう、停学処分をして将来を戒めなくてはよくないと思います」
「まあ、本人に事実を聞きたださなくては――果してこの和歌子というのがそういう関係のものかどうかも分らないしするし――」
校長は小使に平一郎を呼ばさした。三人の沈黙へ、靴音高く平一郎がはいって来た。彼は直立不動の姿勢で、駈けて来たらしくぜい/\胸で息をした。国語の教師はどうかして、ここでこのまま内分に済ましたいと思って、わざと恐ろしい顔をして、
「大河」と言った。
「はい」
「お前、この手紙に覚えがあるか」
「はい――これは僕が和歌子さんにあげた手紙ですが、どうして――」
彼は自分の魂をのぞかれた羞恥で赤くなった。同時に意地の悪い体操の教師が、今、弱者としての自分を虐《しいた》げようと眼を光らしているのを認識した。彼は自分に道徳上恥ずべきことは一つもない、今恥じる位なら初めから彼女に手紙は送らないのだ、と繰り返した。
「和歌子さんというのはお前の親類の人かい」国語の先生が言った。平一郎はそこに設けられた慈愛の遁路《にげみち》を感づいたけれど、超意思的に「いいえ」と答えてしまった。
「それじゃ、どうして知っているのだ」
「――僕の、僕の友人です」彼の声は顫えた。
「友人とは言われまい。え、親類でもないまだ若い娘にこういう手紙を書いて、よくない」
「――」
「吉倉和歌子というのはどういう人だ」
「高等女学校の四年生です」
「何のために手紙をやったのだ」
「会いたかったのです」
「会いたかったとは何だ!」と体操の教師が平一郎の頬を一つ擲りつけた。平一郎は充溢する血を総身に感じて、擲られた頬を抑えた。
「貴様、中学の生徒じゃないか。それに女学校の生徒に艶書を送って、しかも学校内へ呼びよせて、あいびき[#「あいびき」に傍点]するとは何ということだ! ――会いたかったとはなんだ!」
校長も国語の教師もこうなっては口出しが出来ないことになった。
「貴様、政治家になるとか現代の政治家は堕落しているとか小生意気な口を言いながらこのざまはなんということだ! この次の朝笑わなかったら怒りますとは何んだ! 貴様は堕落生だと思わないか!」
「僕は堕落生ではありません!」
「何だ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「僕が和歌子さんに手紙をやったのが何故いけないのです。僕達は二人で慰め合い、励ましあって勉強しているのです。どんな悪いことを僕はしたというのです。誰かに僕は罪悪を行なったでしょうか――僕と和歌子さんは小学校の時分から一緒の学校にいたものです――」
「馬鹿! 貴様はここを何と心得ている? ううん、さ、ここを何と心得ている」
体操の教師は平一郎を壁際へ押しつけようとした。平一郎の憤怒が一斉に火を噴いた。
「何をなさるのです! どんな悪いことを僕達は犯したでしょう。僕達は手紙をやりとりすることによってどれほど悦ばしい一日一日を送っているでしょう。僕は一生懸命に勉強して偉くなろうと和歌子さん故にこそ思います。お互いに励まし合って勉強するのがどう悪いのです!」
「それが悪いのだ! 貴様もう帰れ! 教師に返答する奴があるか。帰れ!」
「帰ります!」平一郎は熱い涙を辛抱できなかった。
「こういう奴です。停学の三週間にも処分しなくってはとてもいけません」
溢れ出る涙を腕で抑えている平一郎と、忌々しそうに眺めている体操の教師と、沈黙している校長と国語の教師とに朝の秋光が薄らに射していた。
「お前はもう帰れ」国語の教師が厳しく言った。
「帰って十分静かに考えてみるがいい」と校長が言った。
平一郎は涙を拭って校長室を出た。
校門を出るとき平一郎の背後で始業の鐘の音が冷徹な朝に響きわたって聞えた。灼熱し緊縮した頭脳の惑乱へその鐘の音は、ひとりで考えろ、深く、心の根元がどっしり落着くまで考えろ、といい聞かしてくれた。彼は街をどういう風に歩いたか意識しなかった。秋の朝の空気は冷やかで、彼の頬にひた/\押しよせては流れて行った。十六のこの秋まで根本から自分の生活を反省することのなかった自分である。彼は幼い頃に父を亡い、母のお光一人に育てられ、自分の世界を意識するようになった頃は、彼は「貧しい母子」の自分を認識した。(しかし自分はその貧しいことに弱り果てる弱者でない。)泉のように耐えない母の愛感は彼を「貧」のためにひがます代りに発奮のよい刺戟に変じさせていた。まことに貧しくても幸福だ。伸びゆく生命の過程を全心肉に生活していた彼である。彼はもはや幼年とは言われないであろう。山林の槲《かしわ》の木はたとえその木の年寿が若くともそこらに生い茂る雑草や灌木よりは偉大であるように、十六の平一郎は無意識に内より湧く生命のままに生きて来たが、はやくも若木は社会の制約に障えられねばならない。それが槲の木の運命である。彼は夢からさめたような、未知の原野に立って広大な野面を望んだような雄大な向上感と発見感とを一身に体感していた。
「どう悪いのか。悪いことを自分は犯した覚えはない。己は学校においてそんなによくない生徒であろうか。己はそんなに勉強家と言われないかも知れないが、決して怠け者でない。己は先生方が軽率であったり下劣であったりする時にこそ内心軽蔑はしたものの、衷心自分達の師としての敬礼は失わなかった。己は和歌子を愛した。そうだ愛したのだ――恋したのだといっていい! しかし恋したことがどうして悪いのであろう。恋したことを打ち明ける、それは悪いことであろうか。己のあの手紙を体操の教師は艶書だと言って罵った。己は艶書だという教師の意味でならそうでないと言おう。しかし恋を打ち明ける手紙を指すなら厭な言葉だが己は神聖な艶書だと言おう。己は未だかつて和歌子の美と崇厳を愛し尊敬こそすれ、未だ彼女をけがそうなどと思ったことはない。己は常にあの和歌子の美しさにふさわしいように自分自身を偉大な人間としなくてはならないと励んでいる。己は深井をも愛している。自分は深井を愛さずにはいれないから愛した。この必然がどう悪いのか。深井も己を愛しているではないか。和歌子も己を愛しているではないか。そうして三人がこれまで実に楽しく生き甲斐を感じつつ勉強して来たではないか。何処に悪いことがあるのだ」
市街を離れたS河の上流であった。地が高くなるにつれて狭《せば》まった両岸の平野はそこではもうほとんどなかった。静かな澄んだ藍色の大空の下に、河流は深い淵をつくって緩かに流れていた。水面に絶壁から這いさがる藤蔓が垂れて流水はそこに渦を巻いていた。枯草の生い茂った河原洲、土堤《どて》の彼方に国境の遠山が水晶のように光って見える。平一郎は河原の草の中に寝転がった。
「それがよくないというなら何故己に静かによくない訳を教えないのか。何故直ちに己と彼女との間をおかしな関係に考えてしまうのか。汝が卑劣だからではないか! 恥じるがいい!」
このときほど自分がお光一人の手に養われ、貧しい中から中学へ通っていることや、深井のことや和歌子のことがはっきり身に沁《し》みて感じられたことはない。十六年の生涯における「自然の決算」であった。幼年から少年を経て青年へ移り行こうとする成長の一段階であった。
「面白くもない」彼には校長や受持の教師が映像された。彼は二人がひそかにもった好意を直感した。体操の教師の自分への態度も純粋に手紙を悪いと断定したことばかりでなしに、手紙は単に一種の手段に使われていることも分った。学校という一つの古臭いいじけた陰険な小さい争闘や啀《いが》み合いの絶えない木造の大きな箱。その箱の中へ毎日自分達は通わなくてはならないのだ。随分やりきれない。ぐず/\してはいられない。箱の主人が校長で、教員がその中でうごめきながら己をだし[#「だし」に傍点]に争っているのだ――「嫌なことだ!」「しかし――」と彼はあるすばらしい光明が内より射して輝くのに会った。それは「自然の恵める知恵光」であった。
「しかし、これは学校ばかりではない。この人生、この地球がまた大きい一つの古臭いいじけた陰険な、啀み合いの絶えない球塊であるのではないか? 自分もまた無数の生まれては死に生まれては死んだ人間のように自分の一生をこうした啀み合いをして終らなくてはならないのだろうか。そうだとは信じられない。どうしたって信じられない。せめては自分一人でもがこの人生を生き生きした美しい悦びに充ちた人生であるようにしようとの意思を抱いてはならないのであろうか? それは出来ないことかも知れない。しかし出来ないことだとは言えまい。出来ることかも知れないではないか? そうです、出来ることです。きっと自分がやってみせます。死んでもやってみせます――ああ」と彼は深碧の大空を仰いで、「やらして下さい」と何かに祈るように跪いた。「使命」の感が彼に燃えたのである。
平一郎は午後四時頃平気な様子で家へ帰った。母へ自分から停学のことを知らす気になれなかった。知れるなら仕方がない、知れなければどうかして知らしたくないと考えた。どうしてよいか分らなかった。しかし、どうにかしなくてはならないものが彼の根元に蠢《うご》めき始めていた。彼はぐっすり夕暮まで寝た。
「平一郎、平一郎、どなたか戸外《そと》で呼びに来ていらっしゃるそうですよ」
彼は起きた。米子が笑いながらお光と彼の顔を見比べていた。
「誰?」
「吉倉という方」米子は知っていますよという風に微笑んだ。
「本当に?」
「ええ。戸外に待っていらしってよ」
「ちょっと行って来ます」平一郎は室を出た。長い土蔵の横の廊下を通るとき米子が「美しいお嬢さまね」と言った。戸外は薄暗くてうそ寒い晩景に軒並の電燈が輝いていた。
「平一郎さん」その声は涙を含んでいた。彼は縋《すが》りつくように近寄って立つ和歌子を黙って見た。長い間、二人は瞳を合わして放さなかった。万感が二人の胸に交流した。もう一切が二人には分った。薄暗い夕闇に白く浮かんだ和歌子の顔が微かに慄えていた。
「わたし、すまないことをしました」
「――」
「今日、わたしも学校で叱られて、そのうえ家《うち》の母さんを呼び出してすっかり話しされてしまいました」
(馬鹿野郎! 学校教師の馬鹿野郎! とう/\僕達を堕落生か何んかのように取り扱ってしまったな! 馬鹿! 恥じるがいい! 恥じるがいい! 僕達の今を見ろ! このようにお互いに純潔な立派な心で相対しているではないか!)
「母さんにあなたのことを訊かれたとき、わたしどんなに辛かったでしょう」
「僕、あなたのお母さんに会いましょう」
「いけません! 今だってわたし逃げるようにしてそっと来たのですから」
「僕は今日、体操の教師に擲られて、その上停学に処分されたっけ」
「――あなたの母さんに御心配かけてすまないわ」
「まだ話してないさ。どうかして話さずにすましたいけれど、きっと明日あたり呼びよせるかも知れないね」
彼は母の心を想像すると暗い鬱屈を感じた。もう街は暗かった。秋の夜が犇々《ひしひし》と二人の身に迫っていた。二人はこの寂しいうちにお互いの触れ合い結び合う生命を感じ合った。ああ、荒れすさぶ嵐よ、吹け! 猛り狂う運命の晦冥を自分達の新しい生命は照輝するであろう。
「怕《こわ》がっちゃだめですよ。僕だってじきに大きくなります。僕達は今こそまるで無力でも、いつまでも無力であるものですか。僕はたとえどんなことがあっても、僕はあなたなしに生きておれません。学校の奴等に僕達の心が分るものですか」
「――平一郎さん、何だかわたしがあなたを誘惑しているような、あなたの母さんにすまないような気がしますのよ」
「馬鹿な! 誘惑なら僕達二人とも誘惑しあったのだ」
「わたし、平一郎さん――」
ああ、何という奇蹟。昨日まで愛する者の唇を知らなかった
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