を紛らすために超意識的に「Kさん」と国語の教師を呼んでしまった。国語の教師は眉を顰めて大きい二重瞼で校長を見上げた。
「あなたの受持でしたな、大河平一郎というのは」
「は、そうですが、――」
 彼は平一郎を想い浮かべた。すると、彼は平一郎を愛していることに気づいた。無論外に表わしはしなかったが、「国語の教師」Kの皮膚の下に未だ息づいている「文学失敗者」Kは平一郎のうちに胸を轟かすような芽生えを見つめていた。殊に平一郎があの美しい少年の深井を愛している浄《きよ》い少年らしい情操を発見して、「文学者K」はひそかに微笑せずにはいられなかったのである。彼は校長が特に平一郎を指して言い出したので少し驚いた。しかし校長の淋しい微笑が彼をも微笑ました。
「面白い気象の生徒ですな。貧乏ですから政治家になりますって言い出して、今度のコンミッション事件の攻撃をやりはじめましてな」
「そうですか。平常はおとなしい生徒ですが、ときおりこう燃えたって来るようなところがあります。非常に――」彼は少したじろいだが生まれた言葉は止める訳にはゆかない。「天才的な素質のある生徒です」
「誰です」と体操の教師が口を入れた。
「四年の大河のことです」
「あ、大河ですか。いや面白い生徒です」
 そのとき時限を報ずる鐘の音が響きわたった。校長は立ち上がった。校長の偶然な一言は平一郎の「逸話」を全部の教師達に知られてしまった。彼等の平一郎に対する理解は機嫌のいい時は「面白い」という程度の好感に止まっていても、何か平一郎に悪意をもつ場合には全然善良なる中学生としての彼の価値を否定する性質のものであった。十六の平一郎は自分の身辺に及ぼしている自分の力の反響にはまるで無知だった。奔騰する盲目の力は平一郎の内から絶えず表現の道を求めていた。
 秋も深くなって来ていた。太陽の照り輝く日中でも音もなく吹く秋風は膚身にこたえて寒かった。夕暮、野に立ってひるごる曠野を望み見るとき、一面に黄色かった野面の稲はあとかたもなく刈り取られて、黒い土肌が陰鬱な日蔭に湿っているのみであった。加賀平野の押し迫った白山山脈の山裾の低いなだらかな山並が紫水晶のように透明な色調を、淡い甘美な夢のような美しい空の色に映していることもあった。あの恐ろしい自然の威力に猛る北国の冬の前の寂しい静かな秋風の吹く秋を人々は頼りない心で迎え送っていた十月、十月の第二土曜日には平一郎の学校の成績展覧会が極めて内輪に催される日であった。こうした催しが実際生徒自身にどれだけの価値を有するかは分らなかったが、こうした催しが沈澱し停滞し萎縮する教師達の間に一脈の生気を通わして、いつとなく一人一人が小さい殻に閉じ籠ろうとする生活の硬化を揺るがし湧立たせるだけでも必要と言わねばならなかった。殊にこの年のように人の気の陰鬱な、寂しいこの秋にはよい企てであった。平一郎にはこの催しは何の交渉もなかった。展覧会といえばいつも図画とか習字とか英習字とか手先の学科に定っている教育制度では平一郎は何の優れた素質もない少年となるのである。彼は手先の学科はすべて普通以下の点数しかとれなかった。彼はつとめて平静であろうとし、そうした学科を軽蔑していたけれど、寂しい気がした。これが何か運動であるか講演会であるかすれば、彼はどんなに喜んだろう。彼はこの催しをお光にまるで重要でないこととして話した。そうして彼は秋の土曜の一日をつまらなく学校で空費する苦痛に耐えられない気がした。彼は和歌子に会ってやろうと思った。少年の冒険心は和歌子をこの展覧会へ招待して、満足しようとした。彼は和歌子に自分達の成績展覧会がこの土曜日にあるから是非放課後来てくれと書いた。もし教師が咎めたら僕の従姉で、母の代りに来たのだと言いたまえ。但し僕は下手な習字を一枚出したきり何も出さなかったからそのつもりで、と書き送った。きっと行きますわ、と和歌子は答えて来た。愛人を待つものの純潔な昂奮が、面白くない土曜日を生涯の悦ばしい輝ける日とするのである。その日、平一郎は幾度二階の教室の窓から、正門から桜の並木の下を通る控室への小径を見下したことであろう。朝のうちは来ないと知りながら足音がすると彼はのぞかずにいられなかった。昼食をすまして級の者と交替してから彼は教室や校舎の中にいる気がしなかった。彼は深井を誘って校舎の横手の小高い丘の上に登った。丘の上からは校門から小径があきらかに見える。二人は草原にねそべって話しながら未だか未だかと待っていた。深井はこの頃しきりに話す少年らしくもない西洋の作家の話や、今の日本の新進の文学者の話などをしきりに平一郎に話した。平一郎はまだ文学――小説などいうものに根柢的な意志を動かしたことはなかった。もしそれが深井の口から話されなかったなら、「うるさいな、女のくさったような女々しい泣言は僕は大嫌いだ」と言いすてたかもしれない。しかし愛する少年の花弁のように美しい唇からもれる話に彼は耳を傾けた。
「ロシヤのね、マキシム・ゴルキイという人はね、もと貧乏な労働者の息子で、ヴォルガ河を上下する船の水夫なんかしていたのです。それが青年時代になっていろ/\な作品を書いて今では世界的な文豪になっているのです――これは少し見当違いのようだけれど、僕は大河君、君がゴルキイに似ているような気がしてならないのですよ」
「――マキシム・ゴルキイというんだね。今でも生きている人かい」
「ええ、生きていますとも。何でもロシヤの社会党の首領ですって」
「ほう――」平一郎はゴルキイがどんな人物であるか、どれ程に偉いかを了解できなかったが、貧乏で、成長して偉くなっているのが彼の気に入った。
「ロシヤにはそんな偉い人が多いのかね」
「それあ多いのです――クロポートキンという人や、トルストイやドストエフスキイや――」
「日本では誰が豪いのかな」平一郎はごろり横になって肘枕をして心の中で「誰がいるものか」と思いながら尋ねた。
「×××××――」平一郎はそんな人の名を聞いたことがなかった。彼は疑い深く深井をみつめた。深井のやや上気した紅顔は真面目で純潔な光に輝いていた。
「君は読んだことがあるのか」
「ええ」
「うう――君は近頃どうしてそんな作品を読み耽るようになったのだ」平一郎はこうたずねた。深井は耳の根元まで真紅に染めて羞恥のためか顔面を俯《ふ》せてしまった。動機に平一郎自身深い因縁と責任のあることは平一郎も思い及ばなかった。彼は追及することを止めて、感触の軽くて快い乾草の上に起き直ってふと校門の方を見た。薄桃色の華やかなパラソルが彼の目に見えた。
「和歌子さんだ!」
 平一郎はもしや和歌子が丘上の自分達を気づかないで行きすぎやしまいかが心配だった。彼の後ろで深井が同じ熱心さで瞳を燃やしつつじっと和歌子の姿に見とれていた。和歌子はすぐに丘の上の二人を見つけた。彼女は笑った。薄く化粧してお太鼓に帯を結んだ和歌子は実際平一郎達の姉としか見られなかった。
「下りていらっしゃいな」
「ここへ上っておいでよ」
「いけません。学校じゃないの。下りていらっしゃいな。先生に見つかったらよくないわ」
「ようし」平一郎は駈け下りた。そして飛びつくように和歌子の双手を握って堅く振った。
「あ、痛い――深井の坊っちゃんが笑っていらしってよ」
「――随分待っていた。ね、深井君」深井はただうなずいた。
「そおお――わたし学校の中へはいるのを止しましてよ」
「どうして? 無論僕達のものは何も出してないのですから――」
「でも、あんまり厚かましくて大胆すぎやしなくて? それにここじゃ、何だか人に見えてよくないわ」
「見えたっていい!」
 平一郎は小倉の薄汚ない、肘のところの破けて白い布のほころびた洋服の腕を二、三度振り廻した。それでも彼は理科実験室の横手の泉水の傍へ行くだけのことはした。秋の陽が緩やかに三人にそそいでいた。植物園の葉鶏頭の燃ゆるような鮮紅色が絶えず三人の目先にちらついていた。
 この日の夕方、体操の教師が校舎の外囲を「巡邏《じゅんら》」したとき、彼の靴先に白いものがかかった。彼は何気なく取り上げてみた。「吉倉和歌子様」とその状袋の表紙には書かれてあった。裏を見ると「大河平一郎」
「四年の生徒の筈だが――」と彼は辛辣な感興に駆られて中の手紙を展いてみた。下手な大きな文字で彼にとっては許すべからざる文字が書かれてあった。平一郎は何も知らなかった。恐ろしい底の知れぬ運命の深淵が大きな口をあけて彼の陥るのを待っていた。

 日曜日の次の日の朝は学校における唯一の新しい朝である。日曜日に緩やかに寛いだ精神が、一週間の学校生活に蓄積した不快や嫌悪の垢を洗われた、悦ばしい顔色となって、この朝の教員室を生き生きさせる。月曜の朝だけは人々は互いにお互いを懐かしく想うのである。十月中旬のこの月曜日の朝、背の低い髭の長い体操の教師は威勢よく誰よりも先に登校した。火鉢に炭火を分け入れていた小使の爺《おやじ》が驚いたほどに、てか/\靴墨で黒光する長靴を短い脚に穿《は》いて、彼は廊下を足音高く歩いた。そして朝の早い校長の出仕《しゅっし》を待つのであった。校長は、二人の可愛い娘が袴をひきずりながら先に出る彼を玄関口まで送って出て、「行っていらっしゃいまし」と言った言葉の懐かしさを繰返して学校の門をくぐって玄関へ上りかけると、あまり好きでない体操の教師が、「お早うございます」とやって来た。彼は「お早う」と言った。そしてそのまま行き過ぎようとした。
「少し特別の御相談がありますが」
「あ、そうですか。それじゃわたしの部屋へどうぞ」
 校長は自分の室へはいって、窓のカーテンを引きしぼった。桜の樹や幹が朝日に美しく輝いている。彼は、椅子に腰かけて毎朝静かに莨《たばこ》をふかして独りを楽しむ時間を、彼の前に立っている男に闖入されたことが不快でならなかった。
「こういう手紙を発見しましたが、どう処置したものでございましょう。実に由々しい問題だと思います」
 こう言って教師は手垢で汚れた大きい西洋封筒を校長の卓上に載せた。校長は嫌でしかたなかった。それでも機械的にその封筒を取りあげて見た。「吉倉和歌子様 大河平一郎」校長は黙って読み下した。
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 ――僕は運動会のないのが残念です、しかしその代り僕達の成績展覧会が開かれるのです。つまらない手先の器用な奴等が大きな顔をして威張っています。僕は何も出しませんでした。少し淋しい気がします。しかし僕はその日あなたに来て貰おうと思います。ここに僕の家族へあてた招待状があります、これを持って放課後来て下さい。僕は校門から小径の反対の方の丘の上できっと待っています。僕は本当にこの考えを思い付いてから狂いそうに嬉しくてならないのです。昨日の朝はK街の十字街で会いましたね。何故すまして行ったのです。この次はきっと笑って行かないと僕は怒ります――
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 校長は微笑みかけようとしたが、彼の前に体操の教師が意地悪そうに覗き込んでいるので仕方なしに厳粛な顔付をした。
「怪しからんことです、一昨日、終会後校舎の周囲に異状がないかと思って巡回して見ましたら落ちていたのです。封を切ってあるところを見ると確かにその吉倉という女が落として行ったに相違ないものです」
 校長は平一郎の記憶を寄せ集めて考えていた。「僕は貧乏です」といった平一郎がそこにいた。(あの生徒なら、これ位のことをやったかも知れない)と校長は思った。校長は呼鈴をならした。小使に呼ばれて四年の受持の国語の教師はドアを押してはいって来た。
「大河平一郎はあなたの級の生徒ですな」
「ええ、そうです」
「ちょっとこれを見てくれたまえ」
 国語の教師はその手紙を読んだ。彼は体操の教師をちらと見て、校長と瞳をかわした。(いやな人間に見つかったものですな)と二人は話し合った。
「どうも驚きましたな」と国語の教師は言ったが、心の中では別にそう驚いてもいなかった。
「こういうことは本人を呼びよせて十分に事実を確かめて、事実であるなら将来を戒める
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