えつつ自由民権の思想を青年に浸潤させようために結ばれた政治結社だったが、明治二十三年に憲法が発布され国民議会が召集されY氏がその第一回議員に選ばれると、自由社を見捨ててしまった。Y氏が去ったあとにも自由社は残ったが、純然たる学術上の青年結社となったのであった。そうして毎年夏にはこの社の総会があって、中央の思想界の名士を招待して講演をしてもらう慣例となっていた。北野容一郎も実にその頃の自由社の青年達の間では有力な一人であったのだ。そうしてこの年の講演会には大学教授で有名な法律学者のO博士と、その頃あまり一般的ではなかったが『洪水』という月刊雑誌を出して一部の青年に自由と力と熱とを解放せよと宣伝し在来の権威を破ろうとしている青年思想家の天野一郎とを招待することになっていた。
 お光と容一郎が大川村の浜辺で俊太郎に会ってから(俊太郎は山陰の米子港まで行くはずだった)二日経ったある朝のことであった。お光が門際に立って村の入口の森林に射す日の光を浴びていると郵便屋が電報を持って来た。兄あての電報であった。兄の特別あつらえの書斎は土蔵の後ろに建てられた新しい二階建であった。お光は胸に異様な動悸を感じながら、ぎし/\音のする階段を昇って行くと、窓から射す日光が浅黄の蚊帳の糸に美しくもつれていた。静かであった。彼女は兄が眼をさましていてくれればいいと考えていた。兄は床の中で眼を開いていた。
「綾子かい」
「いいえ、わたし」
「お光かい」
「ええ」
「綾子かと思った。あいつ大河のことを話すと妙に女らしくなるからおかしい」
「電報が来ました」
 彼はお光から電報を受取った。そしてむっくりお光が驚いたほど元気よく跳ね起きた。
「今から金沢へ行って来る。自由社の講演会が今日になったのだ!」
 すると力の籠った足音がして、黒い艶々した量の豊かな髪を銀杏に結って、服綸更紗《フクリンさらさ》の前掛をしめて淡紅色のたすき[#「たすき」に傍点]を片方だけ外した綾子がはいって来た。すばらしい美しさであった。お光よりか少し背が高くすんなりと伸びて、充溢する光輝が彼女の全身を力強く活気立たせていた。
「はやく御飯をしまわなくちゃ、じゃまでしょうがない」と彼女が言った。
「今から金沢へ行くのですって」お光は兄が黙っているので言った。
「何しに?」
「自由社の講演会に」そう言ってお光は電報を見せた。そうして三人は階段を下りて、長い縁側の廊下を通って茶の間へ行くと、髪の毛の白くなった容太郎がただ一人瞑目して坐っていた。そのときの父と三人の子が坐って向いあったときの森厳な平和はお光に一生忘られなかった。容一郎がじり/\に燃えて来る野の道を金沢の方へ出て行くのを綾子とお光は見送ったのである。

 蒸し暑い風の淀んだ次の日の夜であった。地平にひろごる残光は暗い空と黒藍の海に吸われて、闇が平野一面に這い拡がっていた。曇った鈍い空には月光が層雲の間から射すのみで月は見えなかった。血を騒がす異様な蒸し暑さが充ちる夜であった。お光は門口に立って戸外を眺めていた。彼女は綾子が夕頃から見えなくなったのが何故か心配であった。昨日の夕方晩く、兄の容一郎が勝利を得た将軍のように金沢から帰って来た。彼は実にその時の講師の一人である青年思想家天野一郎を同道して来たのであった。お光は少なくとも三十四、五の人物を予期していたのに未だ三十前の青年であった。しかも、その男性的な容貌と態度の立派さ! 威圧するような泰然とした静坐の仕様、静かではあるが熱と力に充ちた話し振り、父の容太郎に広い茶の室で容一郎が紹介したときの、あの父さえも一と呑みにしてしまったような自由な悠々たる身のこなしよう、まるでこの北野家というものが何の価値もないようなゆったりした態度、それは兄にとっては崇拝の念を喚び起こし、お光には恐ろしい気持を抱かせ、そうして綾子には「何を!」という反感と敵愾心《てきがいしん》を起こさしめていた。お光は綾子が凄まじい憎悪に緊張しながら彼を睨みつけていた、昨日から今日の様子を思い浮かべつつ、綾子が夕方頃見えなくなると共に、彼、天野一郎も見えなくなったのが心配でならなかった。
「憎ったらしい!」と綾子はその日の午後お光に言った。「人を見下したようなあの態度はどうでしょう。兄や父は何をあんなに珍重《めずらし》がる必要があるんでしょう。追い出してしまえばいいじゃないの※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」その言葉からお光は綾子の苛々《いらいら》した、自分を傷つけられたものの悲しみを聞いた。同時に天野の注意が特に綾子に向けられていることも彼女は気づいていた。お光は一時間近くも門際に立って何を待つともなく待っていた。もう日は沈み、真暗であった。そうして真暗な夜に、星が村々の樹木に照り返っていた。ふと気づくと、すらりと背の高い男の姿が大股に緩やかに鎮守の森の方から歩いて来るのが見えた。天野であった。
「お光さんかね」耳の近くで囁くように言って、彼は悠然と門の内へはいっていった。入りしなにじいっと吸い込むように見下した深い眼光には超人間的な恐ろしさがあった。お光はほっとした。すると同じ森の方からとぼ/\と歩んでくる黒い影が見えた。綾子に違いないとお光は思った。綾子であった。
「綾子さん」そう呼びかけたとき見合わした綾子の眼の複雑な恐ろしさ。燃ゆる熱火を厳粛な冷やかさでじっと制している刃のような凄さが身に迫って来た。
「お光さん」
「――?」
「ちょっと来て頂戴」綾子は邸の横手の人の通らない小径に身をひそめた。お光は動悸をおさえて綾子について行った。
「お光さん、これはわたしがあなたへの一生に一度のお願いですよ」と綾子の声はやや顫えていたが、冷たい厳粛さが底にあった。
「わたしは復讐をしなくてはならない身になりました。わたしの二十年の生涯の誇りも美しさも清さも、一切のわたしを蹂み躙った人間に、一生をもって復讐しなくてはならなくなりました――」お光はぎょっとした。綾子はつづけた。
「お光さん、わたしは明日、あの憎い天野一郎とこの家を永久に駈落ちしますよ。みんなはわたしが彼奴《あいつ》に惚れて逃げたと言うでしょう。しかしお光さん、お前さんだけは、わたしが一生涯かかって今日のこの屈辱の復讐をするために仇敵《かたき》を逃がさないように、仇敵と共に逃げたことを知っていて下さい。そして、あの大河さんのところへはあなたがわたしの身代りに行って下さいよ。分って? ええ、お光さん、わたしが一生の願いですよ」綾子は空を見上げるようにして唸った。
「無礼な! 兄や父を丸め込んで、それで足りないでこのわたしまでを征服しようとしたって……このわたしの身体を征服したって、この本当のわたしをどうできるものでしょう! 本当のわたしはいつまでも俊太郎さんのもの! ――憎い奴、憎い奴だ! 天野一郎の畜生! この日を覚えているがいい! きっと復讐はする! 一生かかって復讐する! ――お光さん、わたしは天野と結婚します。そうして十分わたしの美しい肉体で酔わしてやりましょう。しかし十年二十年のうちに、きっと今日のこの復讐をして、あの力に充ちた天野を滅ぼしてみせます! お光さん、お前さんは俊太郎さんへ行って下さいよ。そしてこのことはお前さん一人の一生の秘密ですのよ」
 次の日天野が出発した。そしてその夜綾子が家出をしてしまった。汽車の中からとして兄と父あてに「天野と夫婦になるために」逃げたと書いてよこした。皆はそう信じてしまった。父も兄も綾子を浮気ものだと怒った。殊に父はいよ/\自分の罪の報いが来たように眉を顰《しか》めた。どうにでも勝手にしろ! と彼は言った。綾子のそうしたことも知らずに大河俊太郎が結婚を申し込んで来たとき、お光は自分でもよろしければどうぞと頼んだのであった。容易に話は纏らなかったが、お光の本気が皆のいろ/\な感情を柔らげるに力があった。お光が大河俊太郎に嫁入ったときの心持はむしろ悲壮であった。

 容太郎はお光が嫁入った翌年死んでしまった。そしてその年の秋にはお里も死んでしまった。北野家には容一郎一人が残されたのであったが、その容一郎も、決して幸福に人間の寿命を生きたわけではなかった。北野家の滅亡すべき時が来ていたのであった。しかし滅亡したとて惜しむわけはないのだ。とお光は後に思った。もと/\何一つないのがあたりまえの北野家であった。大きな邸宅や財宝のあるのが間違いであった。しかもその滅亡が北野家の総領である容一郎自身の死と意思によって実行されたことは、むしろ北野家のために祝福すべきであるのかも知れない。お光が大河に嫁して三年目の春五月、胃癌で患っていた容一郎は土蔵の(この土蔵は容太郎とお信の恋の廃墟であった)二階で縊死したのだ。しかも、遺書には全財産を大川村全体にお返しすると書いてあった。
 全財産を大川村へ返却する! ああ自分の弱いことに悩みつづけていた容一郎の最後の人生への贈物はこの一事であった。人々は狂気したのではないかと言ったが、狂気の証跡はどこにもなかった。北野家は滅びてしまった。しかし容一郎の精神は永遠に生きるであろう。俊太郎はお光に「偉い、偉い! とう/\実行した! お前の兄貴は偉い!」と言ったが、その俊太郎の知己の言であることも、俊太郎の死後、年とってからようやく分ったことであった。
 北野家が亡びた翌年、お光は平一郎を生んだのであった。そうして平一郎が三つの春、俊太郎は死んだのであった。俊太郎の死後、お光は平一郎一人のために彼女の後半生を捨てて、生活して来たのであった。ああ、その間の長い苦労よ。
 このお光の生涯の一大転機はあの天野が綾子を「奪った」ことに原因しているのである。天野が綾子を辱しめなかったなら、綾子は真の恋人の大河俊太郎に嫁いだであろう。そしてそれは俊太郎にとっても綾子にとっても幸福であったろう。そしてお光もこうした苦艱な運命を受けないですみ、北野家もあるいはあれほど惨めに亡びなくてもよかったであろう。一切の運命の狂いの原因は、むかしの天野一郎、いまの天野栄介一人にある! ああ、しかもその忘れてはならぬ大悪魔の天野は冬子をも奪って行ったのである。
 お光は合掌し祈るような敬虔な心で、ひとり子平一郎の成長を見まもらずにいられなかった。(天野に勝ち得る者は平一郎より外にない!)
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     第六章




 粛然とした闇の夜である。仲秋近い真夜中の冷気は津々と膚に寒い。暗い地上の物象は暗に吸い込まれて、ただ夜露が湿っぽく下りていた。六百人近い少年が身を潜めて整列していた。そこは広い高台の運動場である。露に湿れた草生《くさふ》が靴の下にあった。水中のように澄みわたった闇である。現世と思われない静けさが、六百の少年の心に浸み入ってくる。時折靴のすれる音、教師達の遠慮深げに歩む音、囁く音より外に断れぎれな蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声がするのみである。
 引き緊った静寂が、夜空をわたる幅の広い大砲の音で破られた。闇に人の動く気配がして運動場の正面にあたるところに二つの篝火《ががりび》がぱっと焔を揺らめかし燃えはじめた。火花を散らし燃ゆる篝火の焔の間に質素な祭壇が、光と暗の間に見えた。
「気をつけえ!」
 少年は森厳な気におされて、心から身を引きしめ不動の姿に唇を閉じた。焔が夜風に煽られてゆら/\と流れる。黒い影が静かに祭壇に榊をささげる。教師が一人一人捧げる。生徒総代が同じく榊をささげる。その静黙の夜空を遠く大砲の音が、どおん、どおんと響いて来た。
「最敬礼!」闇に六百の少年は長い敬虔な敬礼を行なった。そして頭を挙げたときには、もう篝火の火は消えて、余燼が闇に散らばっているに過ぎなかった。寂しくて厳粛であった。一同は一人一人夜露に湿れた草原を通って裏門から街の方へ去りはじめた。平一郎もその中の一人であった。彼は幾度も空を仰いだが、彼の好きな星は一つも見えなかった。群集におされて街中へ出ると、両側の家々には黒い幔幕が引きまわされ、黒い章のついた提灯が軒並に吊されてあった。この夜の午前零時を合図に行なわ
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