誰一人いない浜の砂丘に立って、二人は暫く海の深い気配、明暗、拡がり光り燃焼する空の面に見とれていたが、人並はずれて大きい頭からたら/\汗をながして、女のお光よりも少し低い位の身体を苦しそうに喘いでいた兄の容一郎は突然「お光」と呼びかけた。お光はそうしたことはしば/\あったので、それにお光はその頃兄を学者として尊敬していたので、何かしらと耳をかたむけた。
「今地球は廻っているのだよ、お光」そう言った兄の顔は非常に苦しいものであった。
「己は今、いい気持になってうっとりしかけたのだが――己はすんでのことで大変なことをしかけたのだ。自然、この見渡す限りの自然がどうして己にとってうっとりするほどの恩寵に充ちた世界だろうか。コペルニクスという人、西洋の学者は地球は廻っているということを教えてくれたが――それが真理であることを知るまでは誰も知り得ないという人間でしかない……自然は決してうっとりするような恵み深いものでないのだ。己が今うっとりしかけたのは己の心に油断が生じたからなのだ。もし自然が恩寵深いものなら、第一、己のこの肉体の醜悪で、虚弱なのは何と言ってよいのだろうかな。どうしたって己は自然は残酷なものと断定しないわけにはゆかない。そうじゃないか、お光。無論お前は美しいから己に反対するかも知れないが――」
 お光は、じり/\焼け爛れた日中に寂しそうに立っている、頭ばかり大きい、胴の短く細い、脚の短い兄の姿を正面から見る気になれなかった。幾度となく聴かされる兄の呪いではあるが、さてどうといって慰めようもないことであった。
「己は何のために生まれて来たものだろうか。この血の気のない萎《しな》びた皮膚、青白い細い手足、肋骨の一本一本見えすく胴、五尺に足らぬ躯幹、それから、あはははは、南瓜のような頭――これほど揃いも揃って醜悪に作らなくてもよさそうなものじゃないかね。どう考えても己は生まれない前から呪われている! 太閤が生まれたときには母親は太陽を夢みたというし、西洋の耶蘇《ヤソ》が生まれたときには空の星辰が一時に輝いて祝福したというが、己の生まれたときには恐らく蟇《がま》か蚯蚓《みみず》が唸ったかも知れやしない!」
 お光は静かに兄の流れ出す言葉を聴いていた。一生懸命聴くことがせめてもの彼女の出来ることであった。二人は波打際の伝馬船の蔭に腰を下していた。
「己が北野家の嫡子に生まれたことが第一皮肉じゃないかしら。この、重い石塊一つ持てない肉体、うまい魚を少し食いすぎればもう吐き出す胃袋、それが北野家の長男だからおかしいじゃないか。なるほど己は学問が好きだ。天地の道理を知る歓びは己の一つの傲《おご》りである。しかし己が北野家の長男であるが故に、家を出て思う存分勉強出来ないじゃないか。また勉強できたところが、己のこの呪われた身体では知るだけで実行出来ないじゃないか。あはははは。要するに己は呪われているのさ。己は北野家の富と地位を守る番人としても碌な奴でないし、学問しても碌な学者にはなれないし、あははははは。親爺はえらい厄介なものを生んでくれたものだ。生んだものはまだいいが、生まれて来た己は災難じゃないかね」兄は暫く眼を閉じていたが、言い出した平常の苦悶は最後まで言い切らなければ止められなかった。
「親爺の容太郎は己にもの一言[#「もの一言」に傍点]いわないようにしている。自分で自分が嫌になる位の己自身の有様だから、親爺の身になってみれば無理もないかもしれないが、あの冷淡な、早く死んでくれというような眼差しはどうだろう。何んでそんなに見づらい己を何故生ましたのだ。己は親爺にいつ生んでくれと頼んだことがあるか。勝手に生んだのではないか。生まれて来た己に何の罪がある。しかも一切の罪業の罰が己に呪いとなって積み重なってくるのだから苦しいじゃないか――え、お光、お前はどう思う。お里は己達にとって生みの母でないことは確かだが、一体己達には何にあたるだろう。親爺にとっても従妹、己にとっても従妹、己の生母は親爺の叔母、己には母でそうして大伯母――どうしたことだ! こりかたまった罪業の罰が己の不幸な生涯に負いかかって来ているのを感じるのが己の誤りだろうか」
 お光は兄の蒼ぶくれの顔に辛そうな涙のにじんで来るのを見た。お光は兄を慰めたくてならなかった。しかしどう言って慰めてよいか分らなかった。綾子であるなら「兄さん、お止しなさいな、めそ/\言うことは大嫌い!」という風に兄の心を引き立てもするのだが、お光にはできなかった。お光はただ心で同情しているより仕方がなかった。お光は仕方なしに瞳を海の方へ向けた。ゆったり湛えた海面一杯に日は照り返し、白い波頭が入り乱れていた。そうして今まで見えなかった一隻の和船が純白な帆に風を孕ませて海岸近く走せてくるのが見えた。ああ、それを見たときの嬉しさはお光に一生忘られないものの一つであった。
「兄さん、俊太郎さんの船が見えましてよ」
「おう。そうらしいね」兄もさすがに嬉しそうに立ち上がった。兄の唯一の親友であり、兄との内面的交渉の深い、常に兄を光明的に力づけている俊太郎であることを知っているお光は、そうした場合兄以上に嬉しかった。ああ、漫々たる大海原を白鳥のように乗り切って来る愛すべき奴よ! 船首に翻る真赤な旗の間から船頭の逞しい裸体の動作が見え、やがて船首が海岸の方へ真正面に向き変った。お光達には腕を拱《こま》ぬいて立っている大河俊太郎の姿がはっきり見えた。兄はたまらないように「おうい」と叫んだ。
「おうい!」弾力のある俊太郎の声が海の微風に送られて響いて来た。
 やがて船の進行が止まって新しい錨がぎらり青い光を閃かして海に投げ入れられた。海は新しい船を軽々と白鳥のように浮べたままゆらりゆらり波をうねらせていた。海上に下された一艘の伝馬が俊太郎を乗せて近づいて来た。
「よう、ありがとう」
「おう」と俊太郎と容一郎の手を握り合った瞬間、容一郎の眼には涙がにじみ出ていた。
「わざ/\すまなかった。お光さんも来て下さって!」という簡素な言葉と真から懐かしげにしげしげ見下している清らかな黒目勝ちな眼には、兄妹に対する明るい愛が現われているのをお光は知った。
「いい景気だったよ! とても松前の景気を見て来るとこの辺は死んでいるようなものだあね」睫毛をしば/\させる俊太郎の細身に見える程に引きしまった筋肉を日はたら/\と照した。容一郎は見上げるようにして、
「いい船だ、思ったよりいい船だね」と言った。
「どうしてしっかりしている。佐渡の近くで不意な暴風にでっくわしてもびく[#「びく」に傍点]ともしなかったっけ――どうも暑い! 船へ行こう。船上は帆の影で涼しい」
 容一郎は黙っていた。俊太郎はお光に尋ねるように、「またふさぎ[#「ふさぎ」に傍点]の虫がついたのじゃないかな。それとも学者らしく納まったのかね、え」そうは言ったが、眼色は心からの心配と友情を表わしていた。お光はそれが嬉しかった。
 やがて三人は伝馬に運ばれて新しい船に乗り移った。新しい木の香がすが/\しかった。俊太郎は甲板を踏みならして、「面倒くさいことがあったらここへ来るといいですよ。支那へでも南洋へでも君を乗せて行って、君はここで好きな本を読んでいたらいいじゃないかね。海の上へ出ると気がまたからりと換《かわ》るものだから」そして「おおい! ここへ茣蓙《ござ》を敷いて、栗の罐詰と酒を持って来てくれないか」と彼はどなった。主檣《メインマスト》の周囲の空所に三人は坐りこんだのだ。お光は半ば恐ろしく半ば壮快に見渡す大海原を眺めていた。すると兄が「実はさっきから地球は今廻っているのだと考えていたので」と言って笑った。船頭が酒をもって来た。お光は兄と俊太郎に酌をしつつ、ほがらかな幸福を感じていた。二人ともそんなに飲める方ではなかった。
「くよ/\するのは無理もありません。しかしそのくよ/\にもくよ/\がありますよ。ひょっと考えてみりゃぁ天地は広大ではないだろうか。君の真価値をそんなに誰でもが知ったらそれこそ迷惑さ。君の身体は弱い。君の容貌はなる程醜い。しかし君の内なる魂の偉大はそうしたものを内から輝かしているはずだあね」
(君の身体は弱い、君の容貌は醜い)と兄の前ではっきり言い得るだけの人間は俊太郎一人であった。お光はそうした瞬間には俊太郎に親身の兄のような愛を感じた。そうして事実彼は綾子の夫として将来彼女の兄となるべき筈でもあった。
「それは淋しくて切ないことだ。しかし、それは既にどうにもならない自然の運命。恨むのはいいが、恨むことに囚われて自由な路を見失うのは愚だ――君の親爺はどうして君を愛さないものか。ただ君の内なる親爺自身を見出すのが辛いから、自分を恐れて君につらく無情らしくあたるのに相違ないのさ。それよりか己の親爺と来たら、ほんとに考えても涙がこぼれる。酒は飲む、博奕は打つ、ああ己が七つ八つの時分から朝の暗いうちから起きて飯を焚いて、味噌汁をこしらえて、それから親爺様御飯が出来ましたと言って起こして行くまで床にいて起きなかったのだからね。勿論己の嘗《な》めて来た苦しみと君の嘗めなくてはならぬ苦痛とはまるで本質が違うことはちがう。君のは何と言ったらいいだろう――前世の業だね!」お光はぴりりと神経にこたえたが、兄は存外しずかに、罐詰の栗を、「うまい」と言って食べた。
「うまいだろう。この沖合で君と一杯やろうと思って用意して来たのだから。この沖へ来たときには大きい男の胸がわく/\したからね! ――それはそうとこの頃何を読んでいるのかね。この前会ったときはダアウィンの進化論で己を煙に捲いていたっけが」
「この頃は何も読まない。頭が重いし、暑さが身体にこたえて」
 二人は浅い酒の酔いに頬をほてらしていた。お光も小さい盃に一杯注がれて身体中の血を熱くして来た。船頭のうたう出雲節がきれぎれに、
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西が黒けれあ雨とやあら、東が紅《あか》けれあ風とやあら、
千石積んだる船でさえ、風があわねばはせもどうる……
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と海の微風と共に送られて来た。
「綾子さんはたっしゃですか」と俊太郎が暫くしてたずねた。
「あいつはいつも元気で、家中自分のものにしていますよ。そうして――」
「そうして?」
「あはははは、君のことを言うときだけはおとなしくなるから妙です」
「そうか」と俊太郎はお光を見て微笑《ほほえ》んだ。嬉しいのだとお光は思っていた。
「お光さんもたっしゃらしくて結構ですな」お光はただ微笑むより返事の仕様がなかった。
「君は実際いい妹さんをもって結構だよ」と彼は言った。
「さあ――しかし妹なんていらないと思うね。ことに綾子の己を馬鹿にしきっていることは!」
「綾子さんか、そんなに邪魔なら僕がもらおうかしら」
 三人はいつしかお互いに全心の力で緊張し合わねばならなかった。
「それはもう! 綾子も君のこととなると特別なんだから! ――君の方から直接僕の親爺の方へ申込んでくれるといいのだが」
「そうかしら」
 そして三人ともほっ[#「ほっ」に傍点]としたのであった。
 ――伝馬は暫くたってお光達を陸へ戻してくれた。夕焼の燃えたつ海上を新しい船が帆をあげて出てゆく情景は美しいものだった。お光と兄は静かに寂しい夏の入日を背にして野道をかえったのであった。路々兄は言った。
「お前はどう思う。綾子の夫として恥かしくない男じゃないか」
「ええ、そうですとも!」
「お前は少しあとになっても辛抱してくれろな」
 村近くで、虫の鳴く音がしきりにしていた。昼の余炎はまださめ切らなかったが、野面をわたる風は寒かった。お光も容一郎もまた俊太郎も、また実に綾子も、俊太郎の妻となるべきものは綾子であると信じきっていたこの日のことが、わずかの日のうちに、お光が俊太郎に嫁がねばならなくなるような異変が起ころうとは、少しも夢みさえしなかった事実であった。
 その頃金沢の市街に「自由社」という学術上の青年の結社があった。最初は当時の中央政界で志を得なかったY氏が故郷に退いて静かに力を蓄
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