った。
「小母さん、わたし、お別れして東京へ行かなくてはならないことになりましたの」
「――?」お光は恐ろしい戦慄に全身を寒くしていた。そして今、冬子の言葉を正当に了解できなかった。
「あの方」と冬子は眼で知らした。
「東京の方ですの。わたしあの方にお世話になることになりましたの。小母さんに御相談する暇がないほどに急でしたの」
「どなた、何という方?」とお光はたずねた。
「天野栄介という方」
「天野――?」お光は呟いた。(彼奴《あいつ》!)とお光の全存在が、四十年の生涯に秘められてある「埋れたる過去」が叫んだ。(十数年のむかし、自分の姉の綾子を、自分の亡夫から奪って行ったあの悪魔、天野め! そして彼奴は今また、冬子を奪って行くのか。)
「失礼します」とお光は冬子に一礼して転ぶように土蔵裏の室へかえって来た。意識の底深くに貯えられていた「埋れたる過去」が熱情を帯びて生きて来た。それは苦しかった。(あの天野が冬子を連れてゆく。何でも聞けば日本有数の大実業家だという。それは事実であろう。十数年前の「青年思想家の天野一郎」が、「日本の大実業家の天野栄介」になっていることは事実であろう。しかしあ
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