美しい夏の夜の世界に、ひとり冬子の運命が急激に変わったのである。誰も冬子のこの運命を切実に胸に感じるものはなかった。[#「なかった。」は底本では「なかった」]ありきたりの習慣として「おめでとう」をとなえ、普通な心持で冬子の幸運を羨む位に過ぎなかった。
(これが自由というものなのかしら!)冬子は独り呟いた。二千円の金で自分はもうこの瞬間から芸妓という勤めはしなくともよくなったのだ。妙に寂しい気がした。取りかえしのつかないことをしたような気もした。澄みわたった黒藍色の空から月光が白刃のように光っていた。彼女ははしゃぎ廻る同僚の姿を傍観した。心はすでに遠く離れてしまった。
「冬子」
「はい」
「お前は鼓が上手だそうだね」
「はい」
「この月夜だ。聞かしてくれないか」
なじみ深い芸道に対する熱愛が解放された冬子の心身に甦った。ああ、打とう、打とう、この好《よ》き夜を打って打って打ち明かそう! 彼女は凛然と言った。
「お幸さん、絃《いと》をお願いします」
「ようござんすわ、冬子さん」
お幸の三味線と冬子の鼓が取り寄せられた。冬子は脈々と湧き立つ芸道の悦びの波を制しつつ、永年愛しているなつかし
前へ
次へ
全362ページ中151ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島田 清次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング