身をまかせていた。川瀬の音が永遠の響きを高くする。
「冬子」
「はい」冬子は立って彼の傍に近寄った。
「向うの山脈はあれは何という山だ」
「あの近い方は医王山でございましょう」
霞んだ深い夜気に山岳はくっきりと山肌を露わして、全山濃い紫紺色の綾のように光っている。天野が山を見ているのか、ただ、立っているのか、冬子には分らなかった。分らないところに微妙の力が彼女にしみわたった。
「寝るとしよう」
彼は冬子を忘れたように部屋にはいって、次の寝室に行きかけた。
「あのお寝巻を」
「うん」彼は女中に着替えさせて、蚊帳の中へ這入《はい》った。
「冬子」
「はい」
「眠くなったら、ここの床へはいってねるがいいよ」
「はい、ありがとうございます」
冬子は、自分の生涯に、今のような強くて温かで真情に溢れた言葉を聞いたことがなかったと思った。彼女はお光を想い起こした。お光の傍にいると自分が芸妓であることは自然に忘れてしまう。彼の前では自分は芸妓でありたくないと一心に思う。お光の傍にいては穏やかな平和に解け合う代りに、彼の前では自分などには量り知られぬ偉大な力に圧倒され、しかもその力に引きずられそう
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