を寄付していったのであるが、級長である平一郎は朝礼の時にはいつも列の一番前に並んでいた。ある朝、ふと眼をあげて大鏡の面を見ると、実にはっきりと、今燃え立ち襲って来ている瞳が写っていたのだ! 初めは幻覚かと思ったが、しかし和歌子も六年の女の組の級長なので、一番列の前にいる筈であった。和歌子に相違なかった。彼は威厳を含んだ秀麗な和歌子の鏡面のすがたを視つめていた。自分の立っている所から彼女の姿が見えるように、自分の姿も彼女のところから見えるに相違ない。こう彼は思って鏡面を視つめていた。奇蹟であった。じっと威厳を保っていた和歌子の映像が笑ったのだ! ああ、毎朝の鏡面を仲立ちにしての二人の対面よ! 毎朝、鏡面で互いににっこり笑《え》み合うことがいかに幼い頃の悦びであったろうか――その忘れがたい瞳が、今力強く彼を襲って来ているのだった。彼はその瞳が何を語るかを、全身をもって感じていた。全身が火焔を吹くように感じられた。しかも明らかに、彼女の豊かな黒髪を品のいい束髪(それは何とかいう西洋の結い方かも知れなかった)に結った髪、古英雄のように濃く秀でた眉毛、威厳と情熱に燃える瞳、ふっくらと弾力を湛《たた》えた頬の肉付、唇の高貴さと力強さ――要するに和歌子の美が燃えていたのだ。しかし彼は「男子の気象」を失わないために痩我慢ではあったが、話を最後まで続けたのであった。その話をしている間じゅうの、あの抑えても抑えても脈々と湧き来る光、歓びの波よ、湧き立ち、充ち溢れる深い魂の高揚よ、彼は話を最後までやるぞ、という意識はあったが、話を終えてからいつ壇を下りたか、いつ壇を下りて席についたかは、うっとりとした輝きに充ちた緑金の夢心地であった。しかもその夢心地の彼に「吉倉和歌子さん」と呼ぶ先生の声が銀鈴のように鳴り響いた。何という偶然。彼の次に和歌子が話をする順番であるとは彼も知らなかったことだった。瞳を上げると、正面の教壇の上には荘厳な感じのする彼女が、藤紫の袴の前に右手をそっと当てて立っていた。窓から入る早春の微風は、彼女の髪のほんの二筋三筋のもつれをなぶり、藤紫の袴のひも[#「ひも」に傍点]が軽やかに揺れているのを彼女の指が無意識に抑える。彼女の崇厳な美しい燃える瞳は、彼の上にぴったり据えられ、弾力ある頬は熱情に紅《あか》らんでいる。ああ永遠なるひとときよ! 力に豊かな、ややふるえた和歌子の音声が語ったその日の話は、微細な一言一句もはっきりと平一郎は憶えていた。
「わたしの父が七、八年前に朝鮮の公使館におりました頃でございました。ある寒い冬のことで、雪はそんなに降りませんでしたが、厳しい寒さで草木も凍ってしまっていました。ある朝、一人の日本人の卑しからぬ奥さんが、辺鄙《へんぴ》な町端れを何か御用があるとみえまして、急ぎ足で歩いておいでになりました。町の向うのすぐ近くには、赤い禿山が蜿蜒《えんえん》と連らなっているのでございました――」(ございました)と言うときの(ざ)のところで、強く揚がるアクセントは忘られないものだ。「その禿山の奥には、その頃虎が沢山住んでおりまして、時々朝鮮の方が食われたそうでございます。その奥さんが町端れへ出ますと、向うの方から何か黄色いものがのそ/\やってまいりました。奥さんは気がおつきになりませんでした。すると黄色いものが恐ろしい声で唸りました。虎なのでございました。何かよい食物がないかと虎はのそ/\町へ出かけて来たところでございました。そこで奥さんの気づかれたときと、虎の飛びかかるときとがいっしょでございました。奥さんはどうすることも出来ませんでした。奥さんはその時、奥さんの一人の子である女の子の新しい着物を持っていらっしゃいました。奥さんは自分は食われても、自分の子供の新しい着物をよごしてはならないとお考えになりまして、その着物の包みをしっかり抱きしめていらっしゃいました。虎は、奥さんの頭から食べかかりました。しかし奥さんは自分を食われている間もじっと地面にふして、まるで御自分の子供を抱くように、その包みを抱きしめていらっしゃいました。そして町の人達が鉄砲を持って集まって来ました頃は、血に染まって死んでいらっしゃいましたが、奥さんの御子さんの新しい着物だけは、奥さんの胸のところで温められて、まるで子供のようにそのままになっておるのでございました――」
「その子供が――」平一郎ははっ[#「はっ」に傍点]として直覚した。そしてその直覚が壇の上の和歌子にも伝わったのである。厳粛で、愛らしいより崇厳な和歌子の顔に、自然な微笑が現われたのである。ああ、そのひととき!
「その奥さんの子供がわたしであったと、いつも父さんが話して下さいます」
 その日の夕暮、平一郎は学校の門前で彼を待つようにしている彼女に出遭った。和歌子は微笑した。それ
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