は自然に溢れ出る微笑であった。何か言おうとすると、彼女がすた/\歩みはじめた。もうかえろう、つまらない、何んだ女のために、と思って立ち止まると、和歌子が立ち止まってじいっと彼を待つようにした。そうして和歌子が何か言いたげに振り返って立ち止まると、今度は彼が不可抗な逡巡を感じて近づき得なかった。そうしたもどかしさを繰り返しつつ、平一郎は寂しい杉垣を廻らした邸町にまで引きずられて来ていた。そして、その町の彼方に野原の見えるはずれに近い家(そこは実にかの深井の隣家であったとは!)の前で和歌子が立ち止まった。そして振りむいた時の瞳の力強さ! 平一郎は恐ろしくて傍へ寄れなかった。が二人とも笑い合ったことは笑い合ったのだが。和歌子が生垣の門内に姿をかくしたらしかったので彼は思い切って家の正面まで行った。すると彼女は門口に身をひそめて彼を待っていた。
「ここですの、わたしの家は」
 彼女は真赤になってうなずくように顎を二、三度振って、そして鈴の音のする戸を開けて家の内へはいり、もう一度うなずいて戸を閉めてしまった。ああその後の寂しさともどかしさは嘗て恋した「身に覚えある」人でなくては知るまい。森《しん》とした夕景に物音一つしなかった。彼は家々に灯の点くまで前に佇んでいたが、心待たれる和歌子の声一つしなかった。彼はその夜、郊外の野原をさまよって家に帰ったのであったが、その日から彼には和歌子という少女が、忘れられない意識の中心位を占める人間となってしまったのであった。そうして、忘れられていた小学校の時分の和歌子に関する記憶が堪らない生気をもって甦って来るのだった。熱情を瞳いっぱいに燃えさした瞳、秀でた古英雄のもつような眉、弾力に充ちてふくらんだ頬、しなやかで敏捷で、重々しい肉体のこなし方――それは十分間の休み時間における控室の隅に、または微風に揺らぐ廊下のカーテンの傍に、運動場の青葉をつけた葉桜の木蔭に、ひっそりした放課後の二階の裁縫室の戸口に、またはオルガンの白い象牙の鍵をいじくっている四、五人の少女の群の中に、到るところ、いたる時に和歌子の美しさが彼に甦り圧倒して来た。殊に平一郎が自分と和歌子との恋は実に深いものであらねばならないと考えしめたのは、朝、始業の鐘の鳴らないうちは、小学六年生である彼は同級の少年達と控室で組み打ったり相撲したりして、空しい時の過ぎゆくのを充たしていたが、平一郎はいつも三、四人の少年を相手にしてその相手を捩じ伏せるのだったが、そうした折の朝の光を透して見える和歌子の賞讃と憧憬に充ちた瞳の記憶、また運動場の遊動円木に腰かけて、みんなして朗らかに澄んだ秋の大空に一斉に合唱するとき、平一郎の唱歌に聴きいる少女(和歌子だ)、その少女にあの「いろは[#「いろは」に傍点]」四十八字の歌を唄うとき、いろはにほへと、ちりぬるを、わか[#「わか」に傍点]よたれそ、つねならむ……その「わか[#「わか」に傍点]よ」のところを一と際高く唄った心持――平一郎には懐かしく思うのは自分のみではなく、和歌子もまた自分を懐かしく思ってくれているに違いないと考えられたのだ。そうして、学校の往き来に見交わすだけでは寂しさに堪えきれず、それとなく野原をさまよい歩いては、和歌子の家の前を胸を轟かして通って来るのをせめてものことと思うようになってからでさえ、すでに一年を経ているのであった。その大河平一郎にとって、深井が和歌子の隣邸であり、「あ、お和歌さんかい」という親密さであることは大した問題でなければならなかった。
「どうしたものだろうか」平一郎は飯を食い、バナナを食ったせいも加わって、机に頬杖ついたまま考え込むというよりも苛々《いらいら》しい心持で夢みつづけていた。外界はぽか/\と暖かい五月の陽春であった。庭の棗《なつめ》の白っぽい枝に日は輝き、庭の彼方の土蔵の高い甍に青空が浸みいっている。平一郎はこうした穏やかで恵み深い外界の中で、今、自分が堪らない苛立たしさに苦しまねばならないのが情けない気がした。耳を澄ましていると、裏土蔵の向うの廓の街からであろう、三味の音がぼるん/\と響いて来る。その三味の音は平一郎に母のことを連想させた。冬子|姐《ねえ》さんの所へ行ってまだ帰らないのがまた不平で堪らなくなってくる。そうしてその底から和歌子のことがこみ上げてくる。彼は苦しくて堪らなかった。和歌子のことを想うと同時に深井のことが付き纏ってくるのだ。平一郎はまだ見習いの少女の弾くらしい三味のぼるん/\を聞きながら、自分の現在は到底母一人子一人の、他人の家の二階借りをしている貧乏人に過ぎないのだと考えた。それは分り過ぎるほど分り過ぎている事実ではある。しかもこの事実は世間的な解釈では一切の美と自由と向上とを奪われていることになるらしかったのだ。現に深井はいい家庭のお坊
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