うな女々しい泣言は僕は大嫌いだ」と言いすてたかもしれない。しかし愛する少年の花弁のように美しい唇からもれる話に彼は耳を傾けた。
「ロシヤのね、マキシム・ゴルキイという人はね、もと貧乏な労働者の息子で、ヴォルガ河を上下する船の水夫なんかしていたのです。それが青年時代になっていろ/\な作品を書いて今では世界的な文豪になっているのです――これは少し見当違いのようだけれど、僕は大河君、君がゴルキイに似ているような気がしてならないのですよ」
「――マキシム・ゴルキイというんだね。今でも生きている人かい」
「ええ、生きていますとも。何でもロシヤの社会党の首領ですって」
「ほう――」平一郎はゴルキイがどんな人物であるか、どれ程に偉いかを了解できなかったが、貧乏で、成長して偉くなっているのが彼の気に入った。
「ロシヤにはそんな偉い人が多いのかね」
「それあ多いのです――クロポートキンという人や、トルストイやドストエフスキイや――」
「日本では誰が豪いのかな」平一郎はごろり横になって肘枕をして心の中で「誰がいるものか」と思いながら尋ねた。
「×××××――」平一郎はそんな人の名を聞いたことがなかった。彼は疑い深く深井をみつめた。深井のやや上気した紅顔は真面目で純潔な光に輝いていた。
「君は読んだことがあるのか」
「ええ」
「うう――君は近頃どうしてそんな作品を読み耽るようになったのだ」平一郎はこうたずねた。深井は耳の根元まで真紅に染めて羞恥のためか顔面を俯《ふ》せてしまった。動機に平一郎自身深い因縁と責任のあることは平一郎も思い及ばなかった。彼は追及することを止めて、感触の軽くて快い乾草の上に起き直ってふと校門の方を見た。薄桃色の華やかなパラソルが彼の目に見えた。
「和歌子さんだ!」
 平一郎はもしや和歌子が丘上の自分達を気づかないで行きすぎやしまいかが心配だった。彼の後ろで深井が同じ熱心さで瞳を燃やしつつじっと和歌子の姿に見とれていた。和歌子はすぐに丘の上の二人を見つけた。彼女は笑った。薄く化粧してお太鼓に帯を結んだ和歌子は実際平一郎達の姉としか見られなかった。
「下りていらっしゃいな」
「ここへ上っておいでよ」
「いけません。学校じゃないの。下りていらっしゃいな。先生に見つかったらよくないわ」
「ようし」平一郎は駈け下りた。そして飛びつくように和歌子の双手を握って堅く振った。
「あ、痛い――深井の坊っちゃんが笑っていらしってよ」
「――随分待っていた。ね、深井君」深井はただうなずいた。
「そおお――わたし学校の中へはいるのを止しましてよ」
「どうして? 無論僕達のものは何も出してないのですから――」
「でも、あんまり厚かましくて大胆すぎやしなくて? それにここじゃ、何だか人に見えてよくないわ」
「見えたっていい!」
 平一郎は小倉の薄汚ない、肘のところの破けて白い布のほころびた洋服の腕を二、三度振り廻した。それでも彼は理科実験室の横手の泉水の傍へ行くだけのことはした。秋の陽が緩やかに三人にそそいでいた。植物園の葉鶏頭の燃ゆるような鮮紅色が絶えず三人の目先にちらついていた。
 この日の夕方、体操の教師が校舎の外囲を「巡邏《じゅんら》」したとき、彼の靴先に白いものがかかった。彼は何気なく取り上げてみた。「吉倉和歌子様」とその状袋の表紙には書かれてあった。裏を見ると「大河平一郎」
「四年の生徒の筈だが――」と彼は辛辣な感興に駆られて中の手紙を展いてみた。下手な大きな文字で彼にとっては許すべからざる文字が書かれてあった。平一郎は何も知らなかった。恐ろしい底の知れぬ運命の深淵が大きな口をあけて彼の陥るのを待っていた。

 日曜日の次の日の朝は学校における唯一の新しい朝である。日曜日に緩やかに寛いだ精神が、一週間の学校生活に蓄積した不快や嫌悪の垢を洗われた、悦ばしい顔色となって、この朝の教員室を生き生きさせる。月曜の朝だけは人々は互いにお互いを懐かしく想うのである。十月中旬のこの月曜日の朝、背の低い髭の長い体操の教師は威勢よく誰よりも先に登校した。火鉢に炭火を分け入れていた小使の爺《おやじ》が驚いたほどに、てか/\靴墨で黒光する長靴を短い脚に穿《は》いて、彼は廊下を足音高く歩いた。そして朝の早い校長の出仕《しゅっし》を待つのであった。校長は、二人の可愛い娘が袴をひきずりながら先に出る彼を玄関口まで送って出て、「行っていらっしゃいまし」と言った言葉の懐かしさを繰返して学校の門をくぐって玄関へ上りかけると、あまり好きでない体操の教師が、「お早うございます」とやって来た。彼は「お早う」と言った。そしてそのまま行き過ぎようとした。
「少し特別の御相談がありますが」
「あ、そうですか。それじゃわたしの部屋へどうぞ」
 校長は自分の室へはいって、窓のカーテンを引き
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