ることによって保証される家庭にあった。彼のそのときの心理を記すなら、彼は講義しながら女学校の二年になる長女と小学校六年の次女のことを考えていた。彼には男の子がなかった。どうかして年を老《と》らないうちに男子を一人儲けねばならないと考えつつ、「人はいかなる時においても質素を旨として、……」と続けるのであった。彼が待ち遠しい時鐘の音に教室のドアを出たとき、あの微笑を洩したとき感じた平一郎に対する静かに有望な未来を仰望しみるような一種の「いい奴」という風な好意は失せて、あとには「危険な奴」という思想が残ったのである。
 次の時間の休みのことである。校長は教員室へ出かけて、今年は運動会の代りに極く内輪の生徒の成績品展覧会を催すことの相談をはじめた。秋の太陽が薄白い光を桜の樹蔭から一団の中学教師の古びた洋服の肩先へ流れ入っていた。校長を中心に四人の教師がいた。背の低い、顔の円い、濃い長い髭を両頬へはね出した男(彼は巡査というニックネームをもっていたが)は少しほころびたズボンのポケットに両手を突込み、短い両脚を二等辺三角形に突張って、「体操教師の立場として運動会を催されないのは遺憾だ」と言った。
「しかし何でしょう、運動会は毎年いつでも出来ることではあり、珍しくもないことですから、生徒の成績品を烈べて父兄に観覧させるということはいいことですな」
 頸の長い、たるんだ黄色い皮膚を突っぱった、喉骨の一寸もある、眼鏡をかけた、始終白いハンケチをもっていて、何か言うときにはそのハンケチを相手の眼先でふりまわす癖のある英語の教師が、少し禿げかかった体操の教師の頭を顎の下に見下して、右手でハンケチを振り廻わして言った。
「父兄ばかりでなく生徒にとってもいいでしょうな」
「しかし運動会に越したことはありませんです」
「さあ、それは無論運動会に越したことはないのです。しかし今年はいろ/\経費の都合が許されなくなって来ているという校長さんの、あ――」
 そして英語の教師はハンケチを振り廻わした。彼は自分がハンケチを振り廻わしていることを知らなかった。家に帰ると彼は細君にいつも新しいハンケチを一日で役立たずにするといって叱られた。彼はどうして一日のうちにハンケチが垢づくのか分らなかった。彼は太息をついて細君に更に新しいハンケチを求めねばならなかった。そのたびに彼は月給が五十三円で、子供が六人の八人暮しは決して容易でないということの苦労をきかされるのを常とした。
「Mさん、貴方の方の級《クラス》で卒業後の志望はどんなものです」
 さっきから校長の傍の椅子に腰かけて新刊の雑誌を読んでいた教頭が、あーあと腕を伸ばすと同時に英語の教師に話しかけた。彼のこの問は英語教師の今迄の意見をあと方もなく忘却せしめた。彼の頭脳は一斉に自分の受持である五年の乙組の四十人近い生徒を映像した。
「何です、昨年に比して非常に実業志望と工科志望が増えましたです。そうです、もう商工業方面志望で七割をとっている状態です」
「はあ、そうですかなあ」
 教頭は大きな欠伸《あくび》をした。そこへ国語の教師のKがはいって来た。彼は四十を二つ三つ越した年配であった。彼はこの土地の生まれであった。青年時代を彼は京都の同志社ですごした。彼の若い望みは一廉《ひとかど》の小説家になりたかった。しかし、彼は彼の青春が去ろうとするとき自分の才能が自分で認め信じた程に恵まれていないことを発見しなければならなかった。彼はその頃の日本の文学青年の間に渇仰されていたR・Kの創作『五重塔』を読んだときにはどれ程苦しい涙を味わったことだろう。彼のやりどころのない苦悩は彼を遊蕩へ追いやった。遊蕩は彼の資産を奪ってしまった。故郷へ、彼は敗残者の一人として故郷へ帰って来たとき、とにかく卒業しておいた学校の資格が彼をこの中学校で衣食することを許した。それにしても、むかし、自分の競争者であった文学者の文章が古典として教科書に載せられてあるのを生徒に講義するときには、さすがに枯渇した青年時代の熱情が甦ってくるような気がせぬでもなかった。
「R・Kがまだ二十一、二の青年の頃、はじめて名をなした時分に、東京である文学者の会合がありました。その折Mという人が口をきわめて彼のある作品をほめそやして、さて自分の隣にいる薄汚ない単衣を着た若者に君はどう思うと言いました。するとその若者が顔を赤めて(私がKです)と言ったそうです」
 こうしたことを何も分らない生徒に話したこともあった。Bという自殺した美貌の文学者に似ているといわれた彼は、中年になっても深い二重瞼の眼や品のいい鼻などにその面影を残していた。――彼は苦々しく唇を曲げて自分の机に向おうとした。校長がその瞬間にっこり微笑んだ。彼は英語の教師の振り廻わすハンケチがおかしくて笑ったのであるが、微笑
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