を知っているか」と言った。原田はこの三つも年下の平一郎を見下すように「知らない」と言った。
「嘘つけ、君の手紙には大河君に言ってくれると承知しないなどと書いてあったじゃないか」
「何の手紙のことか己は知らない」
「嘘つけ! そんな気象で君達、稚児さんを捜したって碌な奴が従うものか」
「大きにお世話だ――一体今、何の用で己を呼んだのだ」
「深井のことについてさ。深井と己は兄弟の約束をしているのだ、よく言って置くからね。だから君がそれを知っている深井にあんな手紙をやるなら己も仕方があるし、知らないでやっているなら止めてくれたまえな」
「――己は知らなかったさ。しかし、よくないぞ」
「何がよくないというのだ。兄弟の契といっても君達のような契とは違うんだ。君達は卑しいことよりほか分るまいが」
「覚えていろ!」
「覚えているとも!」
 そして、次の朝、平一郎が運動場のクローバの茂った片隅に深井と話しあっているところへ五年の一群が押しよせて来て擲りかかった。「何を」平一郎は力一杯、手と両足で荒れ廻った。そのうちに三年四年の連中が救援に来たので、五年の群は引き上げて行った。
 またそれは二学期の初秋の晴れた日の朝であった。開け放した教室の窓からは澄清な空と桜の実の赤いのや紫がかったのが見えていた。倫理の時間であった。古い帝大出の文学士である校長は倫理の時間を受け持っていた。彼は、自由な自分の思想を生活の方便のためにそっと世俗的な衣で蔽って来たという風のある男である。
「諸子は将来何になろうと思っていますか」
 校長はこう問を提出して微笑して四十人許りの生徒を見下していた。温良な自分の持っているものを出すまい出すまいとして暮して来た彼は、この四十人近い頬の紅い芽生えを見渡すことにある限りない哀愁と悦びを感じていた。首席の越村という頭の図抜けて大きい、一年から首席を続けている少年は、早熟《ませ》た口調で極めて明瞭に、自分の志望は未だ確定はしないが、法科へはいって将来国家の経綸を行なうべき政治家になりたいと言った。二番の竹中という眼の片方潰れた、ほんの初々しい少年は、これから実業を盛大にしなくてはならないから実業家になりたいと言った。三番の綿谷という少年も実業家になると言った。四番の津沢という眼の小さい口の大きい貧血性の少年は、自分は電気学を修めたいと思っていると言った。平一郎は五番目の机にいた。
「大河さん(校長はさんをつけて呼んでいた)はどう思います」
 平一郎は直立しなければならなかった。彼が努力して発し得た第一の答は、
「僕は貧乏です」という言葉であった。皆がどっと笑った。彼は右手をぐいと一ふり振って無茶苦茶に続けた。
「僕は貧乏ですから政治家になります。第一流の政治家になります。僕は越村君のように国家的経綸ということよりももっと重大なことをやります。それは貧乏です。貧乏を退治ることです。貧乏をこの世より絶滅することです。僕は多くの人間が貧乏なために苦しんでいることを知っています。僕は新聞を見るたびに何故現今の政治家はこのことをどうかしないのかと思います。世界中の人間がみんな一人残らず幸福で生まれたことを喜べばそれで政治はいいのだと思います。日本にも沢山政治家がいますけれど、本当に人間全体の苦しみを知っていて、その苦しみをなくしようとしている人はありそうにも思われません。僕の親友の深井は――」
 みんなには「深井は」だけが分ったのでみんなはどっと笑った。もう彼にはみなの哄笑は何でもなかった。
「僕の親友の深井は将来芸術家になると言っています。僕も随分なりたいけれど、僕は文学者や芸術家や思想家になって後代の影響をまつよりも――僕はせっかちですから政治家になって、真理であると信ずることを直接にこの世に実現したいと思います。この頃新聞を見ますと、内閣総理大臣は……」
「大河さん! 政治問題にふれてはいけません――もういい、もういい」
 平一郎は校長が微笑みつつ制しているのを見た。もっと言いたいことが泉のように込みあげて来たが、彼は椅子に腰を下した。皆が彼を振り返って見た。
「経済学者になったらどうです」校長が穏やかに言った。
「――でも、それじゃ、不安心です」
「――」
 校長は黙した。そして、その日の質問はそれで止めて、「第十八章、節倹の必要」という章を展《ひろ》げさせた。校長の微笑はもう見えなかった。それは霽《は》れた青空の一片が曇れる雲の間からちら[#「ちら」に傍点]と覗かれたようなものであった。すぐに年来の生活と習慣の雲が蔽い隠してしまった。彼はもの憂そうに一人の生徒に読まして読本の講義のように字句の講義を続けて行った。「節倹の必要」ということに何の情熱も気力も感じられなかった。彼の真の生活は寧《むし》ろこうした教室における動作を辛抱す
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