にひどい生活の苦労に洗われるまでは、それがどれほど悪い気の毒なことであったかに気づかなかった程であった。
 しかしお光が北野家の先人達のうちでやや詳しく知っているのはお光にとっては祖父にあたる伝右衛門の晩年以後からであった。伝右衛門が五十を過ぎた頃、その頃は大きな改革の波が日本を洗いかけている時代であった。彼はどんな改革が日本に起ころうとも彼自身の大川村における根底は深く揺るがないものだとの自信を抱いていた。政治上の実権が天子に返上されたとき五十八歳の彼は平気な顔をしていたが、暫くして彼はもう大川村の庄屋ではない。庄屋という役目さえもなくなったと聞いたときには、永久であるかのように信じていた自分の地位を一片の布告によって消滅せしめる新しい政府を不思議な眼で見ない訳に行かなかった。彼自身の立場がわりに浅いように思われて来た。彼は六十であった。人間としての活力は衰えかけていたが、ある種の知恵は老熟していた。彼は夢からさめたように全体を見廻した。どうにかしなくてはならないと彼は思った。彼は大川村の住民達があまりに貧しいのに驚いた。貧しいことはよいが、そのためにやがて他の村々との交通が開けるにつれて北野家への信従を失ってはいけないと彼は考えた。彼は最後の精力を振盪《しんとう》して清酒醸造の事業をはじめた。彼の計画は見事に的中して、新しい生気が村中に溢れて来た。村外れの空地に大きい酒蔵が建てられ、白壁がきら/\日光に輝く下で、若い村の青年が、かん、かん、かんと酒桶に輪を入れる音を響かしていた。多少の金廻りは村人の心を動揺させないために有効であった。「うまくいった。うまくいった、北野家の伝統の岩をゆるがし得るものがこの地上《よ》にあろうはずがない」伝右衛門は悦んだ。そうしてその悦びと共に、明治五年の春、伝右衛門は死んだのであった。
 伝右衛門には容太郎という一人の男子があった。彼は二十六の青年で、伝右衛門の先妻の子であった。容太郎の母は同じ村の青木という百姓の娘で、伝右衛門との間に容太郎を生んだきり子がなかった。容太郎が十五、六歳のとき母は子宮癌で苦しみ通して死んでしまった。しっかりした女手がなくなったために、青木の家の末の妹(容太郎の母の妹)が北野家へ来て家事の世話をすることになった。お信《のぶ》は細身ないつもは蒼白い顔で頼りない寂しい風をしていたが、何かの機会には情熱に燃えて美しく頬を染め出す女であった。伝右衛門はそうしたお信を美しいと思わぬでもなかったが、直接どうしようとする意思もなかった。そうした行為が生み出す不幸を知り過ぎている彼の聡明は静かに彼の欲念に打ち克って来ていたが、彼が清酒の醸造をはじめるようになってからは、彼は仕事のためにどうしても身肉を委ねての内助者が必要であった。彼はお信に結婚を強いた。どうしてそれがお信に断り得られよう! 五十八の伝右衛門と三十二のお信は結婚した! 恐ろしい悲痛はこの結婚によって育まれねばならなかった。誰も知らないうちに六つ年上の叔母のお信に恋する心を止め得なかったのは――伝右衛門の一子、お光の父容太郎であった。薄暗い土蔵の二階の冷たい静けさ。蒼白い肉体を内からの熱情で輝かすお信の美しさ。憂鬱な瞳の奥に閃く燐光のような気配の可愛さ。容太郎にはお信が忘れられなくなってしまった。気象の猛烈な容太郎は秘密な恋愛を嫌って、幾度となく伝右衛門に打ち明けようと焦るのをどうにか宥《なだ》めて来ていた時に、お信は、容太郎の父であり実姉の夫である伝右衛門と結婚しなくてはならなくなったのである。お信が伝右衛門の後添になってから、幾度容太郎は薄暗い湿った土蔵の中で彼女を捻じ伏せ擲りつけたか知れない。お信を殺すほどの痴《おろか》にもなれず、父を殺すだけの狂気も持てず、ずる/\お信の肉体に引きずられ、彼はやはり苦しい土蔵の秘密を秘密とする哀れな破廉恥な自分を見つめて二年の年月を送った。あるときはお信が懐妊して三月足らずで流産したとき、容太郎はその闇から闇へ往く生命が誰の子であるかを考えて狂いそうに悩みつづけた。「あなたの子よ。容太郎さん」お信のささやきを彼はぶちこわすように、「罰だ、罰だ! 誰の子だか分るものか」と考えた。そして同じお信の口から父の伝右衛門に、「旦那様、可哀いいことをいたしました」と言っている様子を想像すると堪らなくなった。こうした暗いじめ/\した恋であったが、何も知らずに伝右衛門が死んだ後に、容太郎とお信は忌わしい体感とともに残されたのであった。伝右衛門の死は二人に恐ろしい罪を犯していることの恐ろしさを、ひし/\と身にこたえしめた。一人にとっては実の父であり、一人にとっては実の夫であり、またその一人一人が実の叔母と甥である二人がこうまで愛し合わずには生きていられない事実。
 伝右衛門の死後何よりも容太郎
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