して平一郎を身動きもさせなかった。そして無言は彼に次を語ることを促した。彼は「母は今年四十で――」と言いかけたとき電光のように母の訓戒が閃いた。一大事であった。「母は金沢の生まれでございます。父は小さい時に死に別れたので何一つ記憶していませんがKという港の生まれだそうで、何んでも母の養子であったそうでございます」彼も一生懸命だった。宣言するように彼は強く述べずにいられなかった。彼自身自分の言うことが実在性をもつ真実のように考えられる程一心だった。綾子は疑うように瞳を動かしたが、崖の上から深淵を覗きこむ人のように瞳を落として「そう」と言った。そして、彼女は再び平一郎を見ることを恐れるように、「粂や」と女中を呼んだ。十六、七の円顔で人形のように色白で愛らしい粂は白いエプロンで手をもみながら廊下に跪いた。
「この間言って置いた玄関のわきの四畳半はよくなっているかえ」
「はい、すっかりもう出来ております」
「じゃ、大河を案内しておくれ」と綾子は辛そうに言った。
玄関の傍の畳の新しい四畳半には、窓先には机が具えられ、壁際には書棚、欄間の端には帽子掛までが用意され、部屋の片隅には、彼が停車場から直送した柳行李が縄も解かずに置かれてあった。窓先の空地に植えられた山茶花と南天の樹が日に透されて揺らいでいた。粂は自身机の前に坐ってみせて、「大河さん、もうあなたさえいらっしゃればいいようにして待っていたのですよ」と言って微笑した。粂は右手の障子を開けた。縁側を越えて、奥庭の広い芝生にあたる日光の流れや、常盤樹《ときわぎ》の茂みに薄赤く咲き乱れる桜や、小鳥の囀りが聞える。何というおだやかな静かさであろう。彼は机の前に坐って、充ちわたる静寂にひたった。外界の静寂に似ず彼は自分の内面に不思議にひろがる「あやしげな」感じを抱きしめていた。
「随分いい部屋ですわ。ほんとに大河さんは幸福ですのよ。こちらのようなお邸から学校へ通わして戴けるなんて。それに本当にこちらのお邸のようにいいお邸はないことよ。奥様は立派な思いやりの深い方ですし、旦那様だってそれはいい方ですのよ。ただ若様は少しお身体が弱くって学校なんかも怠けていらっしゃるけれど、…………」粂は快活に下松町のお玉がそうであったように時々大げさな色眼を使って話したてた。平一郎はその色眼を快く思わぬでもなかったが、何故か頼りない寂しさが全身を揺り
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