点]でさえこうじゃないか!」
永井は階下へ降りて行った。電話をかける音がしきりにした。二十分も経ってから永井があがって来た。
「山崎と小西と瀬村とが来るそうだよ!」
宮岡は不快な表情を示した。彼はしめやかな物語を欲したために彼の愛読する作家の話をしはじめたのであった。それを尾沢達が喜ばない。のみならず、あの乱酔をはじめようとしている。たとえ両親を早く失って兄の手に育てられ、遠い北国の市街へ来ている彼にしても、まだ兄の手に養われる学生の身分として、中流以上の家庭の子弟としての宮岡と、尾沢達の間には極めて肝心なある世界が共通でなかった。尾沢にとってはたとえそれがロシヤの大作家であろうとも、今のさき話しつつあった命がけの話の只中にのさばり出ることは、許し難い神厳を犯す行為であらねばならなかった。耳に頭脳に尾沢達の話を聞きいれても魂の開かない宮岡には、永井や尾沢の現実的生活に対してもドストエフスキイの小説を味わうような態度にしか出られなかったのである。
「ドストエフスキイが泣いていらあ! 己の胸の中で泣いていらあ!」
ひたすらに沈黙して僅かに生々しい焼肉を食っていた平一郎は尾沢の瞳に真珠のように小粒な涙滴を見ることが出来た。そのうちにあわただしい足音をさせて「おう寒い」と二重マントを片隅に脱ぎ捨てて髭を生やした三十五、六の壮年の知識階級の男がはいって来た。この男は市街で唯一の万年筆の問屋の主人で、無妻であった。このグループの機関雑誌『底潮』の経済的方面はこの男が負担しているだけ、平常は勤勉な商家の主人だが、こうして一群の中にはいると天真の彼は寂しいといって泣くのである。
「小西さん、よくいらっしたのね。熱いのがありましてよ」
「や、結構、結構、今夜は自殺したくて困っていたところでした。有難う。呼んでくれて有難う。おう、結構、結構――」
そこへ山崎と瀬村がやって来た。山崎は熊本の男で二十七の一昨年帝大の理科を出た秀才だったが、嫌な結婚を強いられたために、自分の愛人をつれて、銀行の頭取である父の金をかなり多く携えてこの市街の伯父を訪ねて今年の春来たのであった。彼は新聞社の客員という風な資格で論説などを書いて生活を立てていた。彼の専攻であった星学に対する情熱は衰えはしなかったが、父が彼の意思から生じた結婚を許さないので、彼はその情熱を犠牲にして彼の愛人を護ることに努めてい
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