ああ、苦しいのは自分ばかりではないのだ、と思うと彼は光が湧き出るような感激を覚えた。(ああ、これでこそ自分の生涯にも生き甲斐がある!)
「ほんとに愛子さんは妊娠しているのか」
「さあそれが、まだはっきり分らないのです」
「ほんとに君にも確信があるのかね」
「――」
 永井は答えなかった。彼は答えられなかったのだ。それは愛していればいるだけ、なお一層人間には知ることを許されていない恐ろしい神秘であった。尾沢も少し自分の質問を悔いたらしく沈黙した。
「だって、それは愛子さんには覚えのあることですわ。愛子さんがしっかりした確信さえあれば、永井さんのやや[#「やや」に傍点]さんがやどっているのに違いないわ」
「女にはそれが直覚できるものでしょうか」と永井は眼を輝かして静子を仰いだ。
「――でも、この方なら、この方の子なら孕んでもいい、孕んでくれる方がいいと思う心には、わたし、きっと感応があると思いますわ」
「そうでしょうか」永井は深い渦巻く淵を覗き込むような寂しい表情を現わした。尾沢はこうした厳かな時の流れに耐えられないように、大きく一つ唸った。永井は静子に与えられた仄《ほの》かな光を頼るように、
「あなたは今、孕んでいるかも知れないと仰しゃったんですね」と尋ねた。
「ええ。そんな気がしますの」
「それで、もし孕んでいるとしたら、何日、何夜のあの時だったろうという覚えはあるものですかね」
「それあ、何ともまだ言われませんけれど、無いこともありませんわ」
「はっきり言ってください。ありますか」
「ええ。ありますわ」
「そうですか」永井はまた眼を俯せた。このときさっきから帰ろうとしていた宮岡が、立ち上がろうとした。尾沢は「もう帰るのか」と言った。
「ええ、失敬します」
「試験もすんだんだし、急がなくてもいいだろう――今、これからすぐカッフェへ行くから、もう少し待っていて一緒に来たまえ」
「そうしようか」
「永井君」と尾沢は永井の背をたたいた。「あとにしたまえ。それよりか今夜はカッフェへ行って久しぶりで少し酔おうじゃないか。ね、そうしよう。自分の真情の要求に直進的に殉ずるか、それだけの勇気がなかったら一切の自力を捨ててなるようにまかすか、どっちかだと僕は思う。苦しみをなくしようとしたってそれあ駄目さ。寝るのが一番だね。寝ていたって夢で魘《うな》されることもあらあ」
「そうだ。そう
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