なかった。苦痛を逃れられないものとする宿命観と暗夜の泥塗れの淫蕩、そうして貧乏。しかしそれは大川村の人達のことであった。北野家には幸福と平和のみがあるべきであった。
 お光は二十の夏まで不幸、真に人生の不幸というものを知らずに生きて来ていた。しかし遂に彼女をして涙の味わいを知らしめる時が来た。それは忘れもしないお光が二十の夏、日本の年号でいえば明治二十五年の七月のことであった。
 その日は朝からじり/\焼け爛《ただ》れそうな日であった。これほど熱烈に明徹に燃焼した日が地上にあり得ようかと思われた。地上の物象が燃え上らないのがお光には不思議に思われた。この日は、二、三年前から兄の容一郎が英語を勉強するために金沢の市街《まち》へ往復するようになってから親しくなったその市街の大きい商人の一人息子である大河俊太郎が、新造の和船を北海道の方から廻航して来る道すがら、大川村の浜へ寄るはずになっていた。俊太郎は兄の容一郎とは気が合うというものか、彼から泊りがけに来ることもあり、容一郎が俊太郎の家へ泊りがけに行くこともあった。そうして彼と綾子とが恋し合っていることは兄もお光も認識し、また好意をもって許しあっている事実でもあった。そうした俊太郎が二十四の青年でありながら、一隻の船を廻航してわざわざ大川村の浜へ寄ることは容一郎兄妹にとっては嬉しいことであった。容一郎とお光は浜への焼けた村道を歩いて行った。綾子は誘われたが来なかった。そうして彼女の来ないところに彼女と俊太郎との恋があった。容一郎とお光はそうした綾子の心を思いやっていた。
 その日、歩いてゆく二人の上に光った空はぴり/\顫え、一面の青田から陽熱に蒸された若い稲の強烈な匂いがお光達の感覚を圧迫した。曠野の中に細く立った無常堂の錆びた煙突も赤く輝いていた。お光と兄は黙って歩いて行ったが、お光には容一郎がこうした強烈な自然の光景を見まいとするように眼を閉じるのを知っていた。曠野の涯の松林を越えると道は熱砂の砂丘に高まっていた。薄赤い昼顔が砂上に夢のように咲き乱れていた。そうして陽熱と地熱の照り返し合う砂丘へ満々と湛えた碧藍の海から微風がそよ/\と吹いて来た。
「ああ、いい気持!」と兄はお光を顧みて叫んだのであった。限りない充実を静かにゆるみなく漲らした偉大な海の前に立って、お光もいつものことながら兄の叫びに同じたのであった。
 
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