たない末の従妹がこんなことを言つたりした。病人は只大きく女らしく成つて行く女達を不思議さうに眺めて居るより外に仕方がなかつた。
 新聞と創作と薬とで生きて居る病人にも移り行く時勢はまざ/″\と分つた。同窓で卒業した青年文士の二人迄が中央の文壇に頭角を現した事なども、朽ちて行く若い文士には悲しかつた。
 こうした悲しい時に限つて、彼は枕元の原稿を手に取つて、
『もう三百枚だ。』
 心から嬉しさうにかう叫ぶのであつた。自分の死と原稿の完成と、どつちが先だらうなどと考へ込むこともあつた。
『清さん、いつか見舞に来たKさんが落陽と言ふ長篇を出して、それあ大した評判ですよ。』
 と従姉妹の一人がわざ/″\新刊を持つて来たりした。
『お前そんなに無理して書かなくつたつていゝぢやないか。』
 若い文士の性急な努力を知つて居る主人は静かにかう言つた。
 軍人に成つて居る義従兄が見舞に来た時『清さんしつかりやりなされ、近頃赤倉清復活の声がすばらしいですよ。』
 などと、細つそりした若い文士の顔を気の毒さうに見守つた。
 かうして病床の三年は経つたのだつた。
 三年!長い/\三年であつた。若い文士は大なる一生の努力を以て、到頭一篇の創作を全うし得た。
『父さん、これを東京へ持つて行つて出版して下さい。』
 打ちふるふ手には五百枚許りの原稿があつた。主人も息子も原稿を真ん中において手を取り合つて泣き伏した。やつれ果てた顔、手、はてはくぼんだ眼、突き出た頬骨、主人は三年の苦しい息子の努力を思ひやつた。真つ白になつた頭の毛、しよぼ/″\になつた其の姿、息子の眼には老ひ行く父が痛ましかつた。
『もう大丈夫だ。』
 若い文士は原稿を見詰めて、涙を拭つた。
 看病の叔母は耳が遠くなつて仕舞つて、従姉妹はたまに見舞に来ても、もう小説の話などをしなくなつた。
『ほんとにうちの良人の意気地なしにはあきれますよ』
 赤児に乳をのまし乍らこんな風なことを口ぎたなく話しあつたりした。
 三年と云ふ年月が、あらゆる周囲の人々に一つ/\其の影をきざんで行くのであつた。

    (五)[#「(五)」は縦中横]

 低いさびた読経の声が、電燈が消されてから又朝迄続いた。一人二人目をさまして、ひそ/\と話し合ふ時分には遠くの方で井戸水を汲む音が聞えて来た。明方の寒さが戸の外から犇々《ひしひし》と迫つて来た。
『お天気はどうかしら』
 と、一人が白んで行く空を見上げた。
 すつきりと晴れ渡つた空の下には、朝露を含んだ新緑が流れる様に美しかつた。
 白い布に包まれた寝棺!
 朝飯を終えた従姉妹達は又思ひ出した様に棺の前に集まり座つた。
『もう釘を打ちつけますよ。』
 奥の八畳から呼ぶ声がした。人々は泣き度い様な顔をして其の方へ走つた。和尚の長い読経の透ほる声と、折々鳴らす鉦《かね》の音とが女達のすゝり泣きの間を縫ふて悲しく打ち震ふて聞えた。
 やがて焼香も終つた頃、奥は部屋一杯に人立がして、夫々《それぞれ》黙つて棺側を取り捲いて、中へいろんなものを入れたり出したりしてゐた。新しい木の匂と線香の匂とが人々の鼻につきまとつてゐた。
 主人は落付かぬ目色をして、もう一遍棺の中を覗き込んだ。
 カーン、カーン、釘は一本打ちつかれた。
 主人は傍に居る、自分の妹と、娚《めおと》達を省みて最後の名残を惜しまうとした。
『兄さん、清さんにお別れを。』
 棺の蓋を持ち上げた妹は半ば泣声にこううながした。主人は白い布を取つてじいつと死人の顔を覗いた。
『清、さいならだ。』
 はら/\、はら/\、涙は止度もなく流れ出る。
 白い顔、高い鼻、ほつそりした眉毛!あゝ若い文士は永久に眠つてゐる!
 女達は二度、泣き出した。
 静かなざはめきの中に長い棺は表へ出された。
 生花、造花、花車、従姉の長男の九つに成る児が位牌を持ち七つに成る男の児が香入れを持つた。
 古い門、古い杉、そうしてなつかしい古い我家よ、若い文士の遺骸は棺にのせられて一歩一歩長い旅路に上つて行くではないか!
 暗い木立や、垣根の多い町を幾つも/\越してやがて行列は華やかな店の多い広路に出て居た。棺の後に従ふ主人と妹。十幾台の車がつづいて、其の内には白いハンケチを顔に当てて居る従姉妹等が居た。暑い午後の日差がきら/\ときらめいて、道行く女のパラソルの水色が燃える様に美しかつた。白いペンキの大橋があつて橋の下には黒ずんだ水が流れて居た。
 行列は白い埃に包まれていろんな町をすぎて行つた。やがて広い/\野原の見える町はずれに来て行列は其処で一寸立止つた。
 主人は遠い野原を隔てた火葬場の煙突から白い/\煙がゆるやかに立のぼつて居るのを見た時、何とも知れぬ恐ろしさを感じて、不図横手の町家を眺めた。(をはり)



底本:「石川近代文学全集4」石川
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