日暮れなどもそうっと無花果《いちじく》を袂《たもと》へ入れてくれた。そうそうこの前の稲刈りの時にもおれが鎌で手を切ったら、おとよさんは自分のかぶっていた手ぬぐいを惜しげもなく裂いて結わいてくれた。どうも思ってるのかもしれない。
 考え出すと果てがない。省作は胸がおどって少し逆上《のぼ》せた。人に怪しまれやしまいかと思うと落ち着いていられなくなった。省作は出たくもない便所へゆく。便所へいってもやはり考えられる。
 それではおとよさんは、どうもおれを思ってるのかもしれない。そうするとおとよさんはよくない女だ。夫のある身分で不埒な女だ。不埒だなア。省作はたしかに一方にはそう思うけれど、それはどうしても義理一通りの考えで、腹の隅の方で小さな弱々しい声で鳴る声だ。恐ろしいような気味の悪いような心持ちが、よぼよぼした見すぼらしいさまで、おとよ不埒をやせ我慢に偽善的にいうのだ。省作はいくら目をつぶっても、眉の濃い髪の黒いつやつやしたおとよの顔がありありと見える。何もかも行きとどいた女と兄もほめた若い女の手本。いくら憎く思って見てもいわゆる糠《ぬか》に釘《くぎ》で何らの手ごたえもない。あらゆる偽善の虚
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