も知ってる恐ろしさだ。省作は手ぬぐいをおとよさんに貸してからだを湯に沈めている。おとよさんは少し屈《こご》み加減になって両手を風呂へ入れているから、省作の顔とおとよさんの顔とは一尺四、五寸しか離れない。おとよさんは少し化粧をしたと見え、えもいわれないよい香りがする。平生白い顔が夜目に見るせいか、匂いのかたまりかと思われるほど美しい。かすかにおとよさんの呼吸《いき》の音《ね》の聞き取れた時、省作はなんだかにわかに腹のどこかへ焼金を刺されたようにじりじりっと胸に響いた。
はたして省作の胸に先刻起こった、不埒な女だとかはなはだよくない人だとか思った事が、どこの隅へ消えたか、影も形も見せないのだ。省作も今はうっとりしておとよさんに見とれるほかなかった。人の話し声も雨の音もなんにも聞こえないで、夢のような、酔ったような、たわいもない心持ちになって、心のすべて、むしろからだのすべてをおとよさんに奪われてしまった。省作は今おとよさんにどうされたって、おとよさんの意のままになるよりほか少しでも逆らうべき力がないようになってしまった。なるほど女というものは恐ろしいものだ。
おとよさんは「ありがとうございました」と小声でいうて手ぬぐいを手渡しながら、一層かすかな声で「省作さん」というた。その声はさすがにふるえている。省作は、「はア」と答える声すら出ないで、ただおとよさんの顔をじっと見上げているうちに、座敷の方で、
「おとよおとよ」
と呼ぶのはお袋の声だ。おとよさんは無言のまますっと身をかわして戸の内へはいる。はいってから、
「はアい」
とあざやかな返辞をする。
「湯がぬるかないか。釜の下を見て上げてくれ」
「はい」
おとよさんは再び出てきて、今度はさえざえした声で、
「省作さんおぬるいでしょう。ゆっくりはいっててください。今燃しますから……」
人をはばからない声だ。薪を二、三本釜に入れて火を燃しつけた。省作はそれにはかまわず、湯を出て着物を着掛けている。
「省さんもう上がったんですか。ぬるかったでしょう」
省作はいくじなく挨拶のことばも出ないが、帯を締めるにもことさらに手間どってもじもじしている。おとよさんはつと立ってきて髪の香りの鼻をうつまでより添う。そして声を潜めて、
「この間里から蜂屋柿《はちやがき》を送ってくれたから省さんに二つ三つあげますよ」
おとよさんは冷た
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