湛《たた》えて居る。やがて、
「民やはあのまた薬を持ってきて、それから縫掛けの袷《あわせ》を今日中に仕上げてしまいなさい……。政は立った次手《ついで》に花を剪《き》って仏壇へ捧《あ》げて下さい。菊はまだ咲かないか、そんなら紫苑《しおん》でも切ってくれよ」
 本人達は何の気なしであるのに、人がかれこれ云うのでかえって無邪気でいられない様にしてしまう。僕は母の小言も一日しか覚えていない。二三日たって民さんはなぜ近頃は来ないのか知らんと思った位であったけれど、民子の方では、それからというものは様子がからっと変ってしもうた。
 民子はその後僕の所へは一切顔出ししないばかりでなく、座敷の内で行逢っても、人のいる前などでは容易に物も云わない。何となく極《きま》りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処《よんどころ》なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕が余り俄に改まったのを可笑《おか》しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げてしまうという風で、とにかく一重の垣が二人の間に結ばれた様な気合になった。
 それでも或日の
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