野菊の墓
伊藤左千夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)後《のち》の月

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十年|余《よ》も過去った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はっきり[#「はっきり」に傍点]
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 後《のち》の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣《わけ》とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年|余《よ》も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧《むし》ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪《むさぼ》って居る事が多い。そんな訣から一寸《ちょっと》物に書いて置こうかという気になったのである。
 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切《やぎり》の渡《わたし》を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈《かいわい》での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎《しい》の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森《いもり》で村じゅうから羨《うらや》ましがられて居る。昔から何ほど暴風《あらし》が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥《は》がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤《すす》やら垢《あか》やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目《もくめ》も判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠《くぎかくし》なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁《がん》であった。勿論《もちろん》一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。
 僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しく煩《わずら》って居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥《びょうじょく》となって居た。その次の十畳の間の南隅《みなみすみ》に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場《はたおりば》で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓《てすりまど》の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮《さえぎ》って北を掩《おお》うている。
 母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹《いとこ》になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩《おそ》いから、十五と少しにしかならない。痩《や》せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味《あかみ》をおんだ、誠に光沢《つや》の好い児であった。いつでも活々《いきいき》として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。
 勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入《はい》ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。
 母からいつでも叱られる。
「また民やは政の所へ這入《はい》ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
 などと頻《しき》りに小言を云うけれど、その実《じつ》母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女|一人前《いちにんまえ》として嫁にゆかれません」
 この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘《かかわ》らず、民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。その間にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達《た》した帰りには、きっと僕の所へ這
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