四時過ぎに、母の云いつけで僕が背戸の茄子畑《なすばたけ》に茄子をもいで居ると、いつのまにか民子が笊《ざる》を手に持って、僕の後にきていた。
「政夫さん……」
 出し抜けに呼んで笑っている。
「私もお母さんから云いつかって来たのよ。今日の縫物は肩が凝《こ》ったろう、少し休みながら茄子をもいできてくれ。明日|麹漬《こうじづけ》をつけるからって、お母さんがそう云うから、私飛んできました」
 民子は非常に嬉しそうに元気一パイで、僕が、
「それでは僕が先にきているのを民さんは知らないで来たの」
 と云うと民子は、
「知らなくてサ」
 にこにこしながら茄子を採り始める。
 茄子畑というは、椎森の下から一重の藪《やぶ》を通り抜けて、家より西北に当る裏の前栽畑《せんざいばたけ》。崖《がけ》の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一えんが見渡される。秩父から足柄箱根の山山、富士の高峯《たかね》も見える。東京の上野の森だと云うのもそれらしく見える。水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何《いか》にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。
「マア何という好い景色でしょう」
 民子もしばらく手をやめて立った。
 僕はここで白状するが、この時の僕は慥《たしか》に十日以前の僕ではなかった。二人は決してこの時無邪気な友達ではなかった。いつの間にそういう心持が起って居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸の中にも小さな恋の卵が幾個《いくつ》か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。この日初めて民子を女として思ったのが、僕に邪念の萌芽《めざし》ありし何よりの証拠じゃ。
 民子が体をくの字にかがめて、茄子をもぎつつあるその横顔を見て、今更のように民子の美しく可愛らしさに気がついた。これまでにも可愛らしいと思わぬことはなかったが、今日はしみじみとその美しさが身にしみた。しなやかに光沢《つや》のある鬢《びん》の毛につつまれた耳たぼ、豊かな頬の白く鮮かな、顎《あご》のくくしめの愛らしさ、頸《くび》のあたり如何にも清げなる、藤色の半襟《はんえり》や花染の襷《たすき》や、それらが悉《ことごと》く優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言《こと》は云えなくなる、羞《はず》かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から起ることであろう。
 ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無造作に詞《ことば》が継がない。おかしく喉《のど》がつまって声が出ない。民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起して、
「政夫さん、なに……」
「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」
 民子はさすがに女性《にょしょう》で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。さも口惜《くや》しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。
「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」
「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」
 民子はせきこんで、
「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あァ云われては実に面目がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほんとにつまらない……」
 民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視《み》ている。僕もただ話の小口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、
「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕はただ民さんが俄に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎《とが》を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」
 何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。なお三言四
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