であったのでしょう。私はもう諦めました。どうぞこの上お母さんも諦めて下さい。明日の朝は夜があけたら直ぐ市川へ参ります」
 母はなお詞を次いで、
「なるほど何もかもこうなる運命かも知らねど今度という今度私はよくよく後悔しました。俗に親馬鹿という事があるが、その親馬鹿が飛んでもない悪いことをした。親がいつまでも物の解ったつもりで居るが、大へんな間違いであった。自分は阿弥陀《あみだ》様におすがり申して救うて頂く外に助かる道はない。政夫や、お前は体を大事にしてくれ。思えば民子はなが年の間にもついぞ私にさからったことはなかった、おとなしい児であっただけ、自分のした事が悔いられてならない、どうしても可哀相でたまらない。民子が今はの時の事もお前に話して聞かせたいけれど私にはとてもそれが出来ない」
 などとまた声をくもらしてきた。もう話せば話すほど悲しくなるからとて強《し》いて一同寝ることにした。
 母の手前兄夫婦の手前、泣くまいとこらえてようやくこらえていた僕は、自分の蚊帳《かや》へ這人り蒲団に倒れると、もうたまらなく一度にこみ上げてくる。口へは手拭を噛んで、涙を絞った。どれだけ涙が出たか、隣室の母から夜が明けた様だよと声を掛けられるまで、少しも止まず涙が出た。着たままで寝ていた僕はそのまま起きて顔を洗うや否や、未だほの闇《ぐら》いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現われた時分に戸村の家の門前まで来た。この家の竃《かまど》のある所は庭から正面に見透して見える。朝炊《あさだ》きに麦藁を焚《た》いてパチパチ音がする。僕が前の縁先に立つと奥に居たお祖母《ばあ》さんが、目敏《めさと》く見つけて出てくる。
「かねや、かねや、とみや……政夫さんが来ました。まア政夫さんよく来てくれました。大そう早く。さアお上んなさい。起き抜きでしょう。さア……かねや……」
 民子のお父さんとお母さん、民子の姉さんも来た。
「まアよく来てくれました。あなたの来るのを待ってました。とにかくに上って御飯をたべて……」
 僕は上りもせず腰もかけず、しばらく無言で立っていた。ようやくと、
「民さんのお墓に参りにきました」
 切なる様は目に余ったと見え、四人《よつたり》とも口がきけなくなってしまった。……やがてお父さんが、
「それでもまア一寸御飯を済して往ったら……あアそうですか。それでは皆して参ってくるがよかろう……いや着物など着替えんでよいじゃないか」
 女達は、もう鼻啜《はなすす》りをしながら、それじゃアとて立ちあがる。水を持ち、線香を持ち、庭の花を沢山に採る。小田巻草千日草|天竺牡丹《てんじくぼたん》と各々《めいめい》手にとり別けて出かける。柿の木の下から背戸へ抜け槇屏《まきべい》の裏門を出ると松林である。桃畑梨畑の間をゆくと僅の田がある。その先の松林の片隅に雑木の森があって数多《あまた》の墓が見える。戸村家の墓地は冬青《もちのき》四五本を中心として六坪許りを区別けしてある。そのほどよい所の新墓《にいはか》が民子が永久《とわ》の住家《すみか》であった。葬《ほうむ》りをしてから雨にも逢わないので、ほんの新らしいままで、力紙《ちからがみ》なども今結んだ様である。お祖母さんが先に出でて、
「さア政夫さん、何もかもあなたの手でやって下さい。民子のためには真《ほん》に千僧の供養にまさるあなたの香花《こうげ》、どうぞ政夫さん、よオくお参りをして下さい……今日は民子も定めて草葉の蔭で嬉しかろう……なあ此人にせめて一度でも、目をねむらない民子に……まアせめて一度でも逢わせてやりたかった……」
 三人は眼をこすっている様子。僕は香を上げ花を上げ水を注いでから、前に蹲《つくば》って心のゆくまで拝んだ。真《しん》に情ない訣だ。寿命で死ぬは致方ないにしても、長く煩《わずら》って居る間に、あア見舞ってやりたかった、一目逢いたかった。僕も民さんに逢いたかったもの、民さんだって僕に逢いたかったに違いない。無理無理に強《し》いられたとは云え、嫁に往っては僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。思えばそれが愍然《あわれ》でならない。あんな温和《おとな》しい民さんだもの、両親から親類中かかって強いられ、どうしてそれが拒まれよう。民さんが気の強い人ならきっと自殺をしたのだけれど、温和しい人だけにそれも出来なかったのだ。民さんは嫁に往っても僕の心に変りはないと、せめて僕の口から一言いって死なせたかった。世の中に情ないといってこういう情ないことがあろうか。もう私も生きて居たくない……吾知らず声を出して僕は両|膝《ひざ》と両手を地べたへ突いてしまった。
 僕の様子を見て、後に居た人がどんなに泣いたか。僕も吾一人でないに気がついてようやく立ちあがった。三人の中の誰がいうのか、
「なんだって
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