間梯子《にけんばしご》を二人で荷《にな》い出し、柿の木へ掛けたのを民子に抑えさせ、僕が登って柿を六個《むっつ》許りとる。民子に半分やれば民子は一つで沢山というから、僕はその五つを持ってそのまま裏から抜けて帰ってしまった。さすがにこの時は戸村の家でも家中で僕を悪く言ったそうだけれど、民子一人はただにこにこ笑って居て、決して政夫さん悪いとは言わなかったそうだ。これ位隔てなくした間柄だに、恋ということ覚えてからは、市川の町を通るすら恥《はず》かしくなったのである。
この年の暑中休みには家に帰らなかった。暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日《おおみそか》の夜帰ってきた。お増も今年きりで下《さが》ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出掛けようとすると、母がお前にも言うて置くが民子は嫁に往《い》った、去年の霜月やはり市川の内で、大変裕福な家だそうだ、と簡単にいうのであった。僕ははアそうですかと無造作に答えて出てしまった。
民子は嫁に往った。この一語を聞いた時の僕の心持は自分ながら不思議と思うほどの平気であった。僕が民子を思っている感情に何らの動揺を起さなかった。これには何か相当の埋由があるかも知れねど、ともかくも事実はそうである。僕はただ理窟なしに民子は如何な境涯に入ろうとも、僕を思っている心は決して変らぬものと信じている。嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心《きぐしん》もない。それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。しかしその頃から今までにない考えも出て来た。民子はただただ少しも元気がなく、痩《やせ》衰えて鬱《ふさ》いで許り居るだろうとのみ思われてならない。可哀相な民さんという観念ばかり高まってきたのである。そういう訣であるから、学校へ往っても以前とは殆ど反対になって、以前は勉めて人中へ這入って、苦悶を紛らそうとしたけれど、今度はなるべく人を避けて、一人で民子の上に思いを馳《は》せて楽しんで居った。茄子畑の事や棉畑《わたばたけ》の事や、十三日の晩の淋しい風や、また矢切の渡で別れた時の事やを、繰返し繰返し考えては独り慰めて居った。民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる。勿論悲しい心持になることがしばしばあるけれど、さんざん涙を出せばやはり跡は気分がよくなる。民子の事を思って居ればかえって学課の成績も悪くないのである。これらも不思議の一つで、如何なる理由か知らねど、僕は実際そうであった。
いつしか月も経って、忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題に苦んで考えて居ると、小使が斎藤さんおうちから電報です、と云って机の端へ置いて去った。例のスグカエレであるから、早速舎監に話をして即日帰省した。何事が起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇《よいやみ》の家の有様は意外に静かだ。台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った様子もない。僕は台所へは顔も出さず、直ぐと母の寝所へきた。行燈《あんどん》の灯《ひ》も薄暗く、母はひったり枕に就いて臥《ふ》せって居る。
「お母さん、どうかしましたか」
「あア政夫、よく早く帰ってくれた。今私も起きるからお前御飯前なら御飯を済ましてしまえ」
僕は何のことか頻《しき》りに気になるけれど、母がそういうままに早々に飯をすまして再び母の所へくる。母は帯を結《ゆ》うて蒲団の上に起きていた。僕が前に坐ってもただ無言でいる。見ると母は雨の様な涙を落して俯向《うつむ》いている。
「お母さん、まアどうしたんでしょう」
僕の詞に励まされて母はようやく涙を拭き、
「政夫、堪忍してくれ……。民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……」
「そりゃいつです。どうして民さんは死んだんです」
僕が夢中になって問返すと、母は嗚咽《むせ》び返って顔を抑えて居る。
「始終をきいたら、定めし非度《ひど》い親だと思うだろうが、こらえてくれ、政夫……お前に一言の話もせず、たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやったのが、こういうことになってしまった……たとい女の方が年上であろうとも本人同志が得心であらば、何も親だからとて余計な口出しをせなくもよいのに、この母が年|甲斐《がい》もなく親だてらにいらぬお世話を焼いて、取返しのつかぬことをしてしまった。民子は私が手を掛けて殺したも同じ。どうぞ堪忍してくれ、政夫……私は民子の跡追ってゆきたい……」
母はもうおいおいおいおい声を立てて泣いている。民子の死ということだけは判ったけれど、何が何やら更に判らぬ。僕とて民子の死と聞い
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