深く憐《あわ》れを催した。家には妻も子もあって生活に苦しんで居るものであることが、ありありと顔に見える。予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転《うた》た旅情の心細さを彼が為《ため》に増すを覚えた。
 予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。
「此の辺が四ッ谷町でござりますが」
「そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ」
 暫くして漸《ようや》く判った。降りて見ればさすがに見覚えのある門構《もんがまえ》、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許《ばか》り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞《ことば》に力を入れて繰返した。
 もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸《くぐりど》に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入《はい》る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著《つ》いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がす
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