であると見られぬことはない。普通な人間の親父なる彼が境涯を哀れに思うなどは、出過ぎた料簡《りょうけん》じゃあるまいか。まずまず寝ることだと、予は雨戸を閉めようとして、外の空気の爽《さわや》かさを感じ、又暫く戸口に立った。
風は和《な》いだ。曇っては居るが月が上ったと見え、雲がほんのり白らんで、朧気《おぼろげ》に庭の様子が判る。狭い庭で軒に迫る木立の匂い、苔《こけ》の匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。
北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れてるという感情が突如として胸に湧《わ》く。母屋の方では咳《せき》一つするものもない。世間一体も寂然と眠に入った。予は何分寝ようという気にならない。空腹なる人の未だ食事をとり得ない時の如く、痛く物足らぬ心の弱りに落ちつくことが出来ぬのである。
元気のない哀れな車夫が思い出される。此家の門を潜り入った時の寂しさが思い出される。それから予に不満を与えた岡村の仕振りが、一々胸に呼び返される。
お繁さんはどうしたかしら、どうも今居ないらしい。岡村は妹の事に就て未だ何事もおれには語らない。お繁さんは無事で
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