があまりに遅いから……」
「ウン僕はやってきた。汽車弁当で夕飯は済してきた」
「そうか、それじゃ君一寸風呂に這入り給え。後でゆっくり茶でも入れよう、オイ其|粽《ちまき》を出しておくれ」
岡村は自分で何かと茶の用意をする。予は急いで一風呂這入ってくる。岡村は四角な茶ぶだいを火鉢の側に据え、そうして茶を入れて待って居た。東京ならば牛鍋屋《ぎゅうなべや》か鰻屋《うなぎや》ででもなければ見られない茶ぶだいなるものの前に座を設けられた予は、岡村は暢気《のんき》だから、未《ま》だ気が若いから、遠来の客の感情を傷《そこの》うた事も心づかずにこんな事をするのだ、悪気があっての事ではないと、吾れ自ら頻《しき》りに解釈して居るものの、心の底のどこかに抑え切れない不平の虫が荒れて居る。
予は座について一通り久※[「※」は「さんずい+闊」、第4水準2−79−45、73−12]《きゅうかつ》の挨拶をするつもりで居たのだけれど、岡村は遂に其機会を与えない。予も少しくぼんやりして居ると、
「君茶がさめるからやってくれ給え。オイ早く持ってこないか」
家中静かで返辞の声もない。岡村は便所へでもゆくのか、立って奥へ這入って行った。挨拶などは固《もと》よりお流れである。考えて見ると成程一昨年来た時も、其前に来た時も改まった挨拶などはしなかった様に覚えてるが、しかしながら今は岡村も慥《たし》か三十以上だ。予は四十に近い。然も互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落《らいらく》と云えば磊落とも云えるが、岡村は決して磊落な質《たち》の男ではない。それにしても岡村の家は立派な士族で、此地にあっても上流の地位に居ると聞いてる。こんな調子で土地の者とも交際して居るのかしらなど考える。百里遠来同好の友を訪ねて、早く退屈を感じたる予は、余りの手持無沙汰に、袂《たもと》を探って好きもせぬ巻煙草に火をつけた。菓子か何か持って出てきた岡村は、
「近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた」
「ウンやるんじゃない板面《いたずら》なのさ。そりゃそうと君も次が又出来たそうね、然も男子じゃ目出たいじゃないか」
「や有難う。あの時は又念入りの御手紙ありがとう」
「人間の変化は早いものなア。人の生涯も或階段へ踏みかけると、躊躇なく進行するから驚くよ。しかし其時々の現状を楽しんで進んで行くんだな。順当な進行を遂げる人は幸福だ」
「進行を遂げるならよいけれど、児が殖えたばかりでは進行とも云えんからつまらんさ。しかし子供は慥《たしか》に可愛いな。子供が出来ると成程心持も変る。今度のは男だから親父が一人で悦んでるよ」
「一昨年来た時には、君も新婚当時で、夢現《ゆめうつつ》という時代であったが、子供二人持っての夫婦は又別種の趣があろう」
「オイ未だか」
岡村が吐鳴《どな》る。答える声もないが、台所の土間に下駄の音がする。火鉢の側《そば》な障子があく。おしろい真白な婦人が、二皿の粽を及び腰に手を延べて茶ぶ台の上に出した。予は細君と合点してるが、初めてであるから岡村の引合せを待ってるけれど、岡村は暢気に済してる。細君は腰を半ば上りはなに掛けたなり、予に対して鄭嚀《ていねい》に挨拶を始めた、詞は判らないが改まった挨拶ぶりに、予もあわてて初対面の挨拶お定まりにやる。子供二人ある奥さんとはどうしても見えない。
「矢代君やり給え。余り美味《うま》くはないけれど、長岡特製の粽だと云って貰ったのだ」
「拵《こしら》えようが違うのか、僕はこういうもの大好きだ。大いに頂戴しよう」
「余所《よそ》のは米の粉を練ってそれを程よく笹に包むのだけれど、是は米を直ぐに笹に包んで蒸すのだから、笹をとるとこんな風に、東京のお萩《はぎ》と云ったようだよ」
「ウム面白いな、こりゃうまい。粽という名からして僕は好きなのだ、食って美味いと云うより、見たばかりでもう何となくなつかしい。第一言い伝えの話が非常に詩的だし、期節はすがすがしい若葉の時だし、拵えようと云い、見た風と云い、素朴の人の心其のままじゃないか。淡泊な味に湯だった笹の香を嗅《か》ぐ心持は何とも云えない愉快だ」
「そりゃ東京者の云うことだろう。田舎に生活してる者には珍らしくはないよ」
「そうでないさ、東京者にこの趣味なんぞが解るもんか」
「田舎者にだって、君が感じてる様な趣味は解らしない。何にしろ君そんなによくば沢山やってくれ給え」
「野趣というがえいか、仙味とでも云うか。何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲湯《しょうぶゆ》に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪《たま》らなくなるな」
岡村は笑って、
「君の様にそう頭から嬉しがって終《しま》えば何んでも面白くなるもんだが、矢代君粽の趣味など嬉しがるのは、要する
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