深く憐《あわ》れを催した。家には妻も子もあって生活に苦しんで居るものであることが、ありありと顔に見える。予も又胸に一種の淋しみを包みつつある此際、転《うた》た旅情の心細さを彼が為《ため》に増すを覚えた。
 予も無言、車屋も無言。田か畑か判らぬところ五六丁を過ぎ、薄暗い町を三十分程走って、車屋は車を緩めた。
「此の辺が四ッ谷町でござりますが」
「そうか、おれも実は二度ばかり来た家だがな、こう夜深に暗くては、一寸も判らん。なんでも板塀の高い家で、岡村という瓦斯燈が門先きに出てる筈だ」
 暫くして漸《ようや》く判った。降りて見ればさすがに見覚えのある門構《もんがまえ》、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許《ばか》り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞《ことば》に力を入れて繰返した。
 もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸《くぐりど》に手を掛けると無造作に明く。戸は無造作にあいたが、這入《はい》る足は重い。当り前ならば、尋ねる友人の家に著《つ》いたのであるから、やれ嬉しやと安心すべき筈だに、おかしく胸に不安の波が騒いで、此家に来たことを今更悔いる心持がするは、自分ながら訳が解らなかった。しかし此の際|咄嗟《とっさ》に起った此の不安の感情を解釈する余裕は固《もと》よりない。予の手足と予の体躯《たいく》は、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。
 一間の燈りが動く。上《あが》り端《はな》の障子が赤くなる。同時に其《その》障子が開いて、洋燈《ランプ》を片手にして岡村の顔があらわれた。
「やア馬鹿に遅かったな、僕は七時の汽車に来る事と思っていた」
「そうでしょう、僕もこんなに遅くなるつもりではなかったがな、いやどうも深更に驚かして済まないなア……」
「まアあがり給え」
 そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内した。予は意外な所へ引張り込まれて、落つきかねた心の不安が一層強く募る。尻の据《すわ》りが頗《すこぶ》る悪い。見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是《これ》は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。
「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだが、君
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