浜菊
伊藤左千夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瓦斯《ガス》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)此の際|咄嗟《とっさ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (78−5は、底本のページと行数。1−87−64はJIS X 0203の面区点)
(例)気※[#「※」は「焔」の78互換包摂字体のつくり+「炎」、第3水準1−87−64、78−5]
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 汽車がとまる。瓦斯《ガス》燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。
 日和下駄カラカラと予の先きに三人の女客が歩き出した。男らしい客が四五人又後から出た。一寸《ちょっと》時計を見ると九時二十分になる。改札口を出るまでは躊躇《ちゅうちょ》せず急いで出たが、夜は意外に暗い。パッタリと闇夜に突当って予は直ぐには行くべき道に践《ふ》み出しかねた。
 今一緒に改札口を出た男女の客は、見る間に影の如く闇に消えて終《しま》った。軒燈の光り鈍く薄暗い停車場に一人残った予は、暫《しばら》く茫然たらざるを得なかった。どこから出たかと思う様に、一人の車屋がいつの間にか予の前にきている。
「旦那さんどちらで御座います。お安く参りましょう、どうかお乗りなして」という。力のない細い声で、如何《いか》にも淋しい風をした車屋である。予はいやな気持がしたので、耳も貸さずに待合室へ廻った。明日帰る時の用意に発車時間を見て置くのと、直江津なる友人へ急用の端書《はがき》を出すためである。
 キロキロと笛が鳴る。ピューと汽笛が応じて、車は闇中に動き出した。音ばかり長い響きを曳《ひ》いて、汽車は長岡方面へ夜のそくえに馳《は》せ走った。
 予は此《こ》の停車場へ降りたは、今夜で三回であるが、こう真暗では殆んど東西の見当も判らない。僅《わず》かな所だが、仕方がないから車に乗ろうと決心して、帰りかけた車屋を急に呼留める。風が強く吹き出し雨を含んだ空模様は、今にも降りそうである。提灯《ちょうちん》を車の上に差出して、予を載せようとする車屋を見ると、如何にも元気のない顔をして居る。下ふくれの青白い顔、年は二十五六か、健康なものとはどうしても見えない。予は
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