、診断書のこと、死亡届のこと、埋葬証のこと、寺のことなど忠実に話してくれる。自分はしようことなしに、よろしく頼むといってはいるものの、ただ見る眠ってるように、花のごとく美しく寝ているこの子の前で、葬式の話をするのは情けなくてたまらなかった。投げ出してるわが子の足に自分の手を添えその足をわが顔へひしと押し当てて横顔に伏している妻は、埋葬《まいそう》の話を聞いてるか聞いていないか、ただ悲しげに力なげに、身をわが子の床に横たえている。手にすることがなくなって、父も母も心の思いはいよいよ乱れるのである。
わが子の寝顔につくづく見いっていると、自分はどうしてもこの子が呼吸してるように思われてならない。胸に覆うてある単物《ひとえもの》のある点がいくらか動いておって、それが呼吸のために動くように思われてならぬ。親戚の妻女が二つになる子どもをつれてきて、そこに寝せてあればその子の呼吸の音がどうかするとわが子のそれのように聞こえる。自分は、たえられなくなって、覆いの着物をのけ、再びわが子の胸に耳をひっつけて心臓音を聞いてみた。
何ほど念を入れて聞いても、絶対の静かさは、とうてい永久の眠りである。再び動くということなき永久の静かさは、実に冷酷のきわみである。
永久なる眠りも冷酷なる静かさも、なおこのままわが目にとどめ置くことができるならば、千重《ちえ》の嘆きに幾分の慰藉《いしゃ》はあるわけなれど、残酷にして浅薄な人間は、それらの希望に何の工夫を費さない。
どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人でも、一度心臓音の停止を聞くや、なお幾時間もたたないうちから、埋葬の協議にかかる。自分より遠ざけて、自分の目より離さんと工夫するのが人間の心である。哲学がそれを謳歌《おうか》し、宗教がそれを賛美し、人間のことはそれで遺憾《いかん》のないように説いている。
自分は今つくづくとわが子の死に顔を眺め、そうして三日の後この子がどうなるかと思うて、真にわが心の薄弱が情けなくなった。わが生活の虚偽残酷《きょぎざんこく》にあきれてしまった。近隣親族の徒が、この美しい寝顔の前で埋葬を議することを、痛く不快に感じた。自分もつまりはそれに従うのほかないのであってみれば、自分もやはり世間一流の人間に相違ないのだ。自分はこう考えて、浮かぶことのできない、とうてい出ずることのできない、深い悲しみの淵《ふち
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