れて居つた卑怯者も、一度溝にはまつて全身水に漬つては戰士が傷ついて血を見たにも等しいものか、茲に始めて精神の興奮絶頂に達し、猛然たる勇氣は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を兩腕の下に引据ゑ、奔流を蹴破つて目的地に進んだ。斯の如く二回三回數時間の後全く乳牛の避難を終へ、翌日一日分の飼料をも用意し得た。
 水層は愈高く、四ツ目より太平町に至る拾五間幅の道路は、深さ五尺に近く、濁流奔放舟を以て渡るも困難を感ずる位である。高架線の上に立つて、逃げ捨てた我が家を見れば、水上に屋根許りを見得るのであつた。
 水を恐れて雨に懊惱した時は、未だ直接に水に觸れなかつたのだ。それで水が恐ろしかつたのだ。濁水を冒して乳牛を引出し、身も其濁水に沒入しては最早水との爭鬪である。奮鬪は目的を遂げて、牛は思ふまゝに避難し得た。第一戰に勝利を得た心地である。
 洪水の襲撃を受けて、失ふところの大なるを悵恨するよりは、一方のかこみを打破つた奮鬪の勇氣に快味を覺ゆる時期である。化膿せる腫物を切解した後の痛快は、稍自分の今に近い。打撃は固より深酷であるが、きび/\と問題を解決して、總ての懊惱を一掃した快味である。我家の水上
前へ 次へ
全26ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング