れて、戰鬪は開始したのだ。最早恐怖も遲疑も無い。進むべき所に進む外、何を顧みる餘地も無くなつた。家族には近い知人の二階屋に避難すべきを命じ置き、自分は若い者三人を叱して乳牛の避難にかゝつた。豫て此所と見定めて置いた、高架鐵道の線路に添うた高地に向つて牛を引き出す手筈である。水深は猶ほ腰に達しない位であるから、敢て困難といふほどではない。
 自分は先づ黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼等無心の毛族も何等か感ずる處あると見え、殘る牛も出る牛も一齊に聲を限りと叫び出した。其の騷々しさは又|自《おのづ》から牽手の心を興奮させる。自分は二頭の牝牛を引いて門を出た。腹部まで水に浸されて引出された乳牛は、どうされると思ふのか、右往左往と狂ひ廻る。固より溝も道路も判らぬのである。忽ち一頭は溝に落ちて益※[#二の字点、面区点番号1−2−22、209−4]狂ひ出す。一頭はひた走りに先に進む。自分は二頭の手繩を採つて、殆ど制馭の道を失つた。さうして自分も乳牛に引かるゝ勢に驅られて溝へはまつた。水を全身に浴みて終つた。若い者共も二頭三頭と次々引出して來る。
 人畜を擧げて避難する場合に臨んでも、猶濡るゝを恐
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