ア………と叫ぶのである。それも三回許りで聲は止んだ。水量が盛んで人間の騷ぎも壓せられてるものか、割合に世間は靜かだ。未だ宵の口と思ふのに、水の音と牛の鳴く聲の外には、餘り人の騷ぎも聞こえない。寥々として寒さうな水が漲つて居る。助け舟を呼んだ人は助けられたか否かも判らぬ。鐵橋を引返してくると、牛の聲は幽になつた。壯快な水の音が殆ど夜を支配して鳴つてる。自分は眼前の問題にとらはれて我知らず時間を費した。來て見れば乳牛の近くに若者達も居ず、我が乳牛は多くは安臥して食み返しをやつて居つた。
何事をするも明日の事、今夜は是でと思ひながら、主なき家の有樣も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少く低い我家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ氣味にして臺所の軒へ進み寄つた。
幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、洋燈《ランプ》が點して釣り下げてあつた。天井高く釣下げた洋燈の尻に殆ど水がついて居つた。床の上に昇つて水は乳まであつた。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雜多な木屑等有ると有るものが浮いて居る。どろりとした汚ない惡水が、身動きもせず、ひし/\と家一ぱいに這入つて居
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