僅に屋根許り現はれ居る状を見て、聊も痛恨の念の湧かないのは、其快味が暫く我れを支配して居るからであるまいか。
日は暮れんとして空は又雨模樣である。四方に聞ゆる水の音は、今の自分には最早壯快に聞えて來た。自分は四方を眺めながら、何とはなしに天神川の鐵橋を渡つたのである。
うづ高に水を盛り上げてる天神川は、盛に濁水を兩岸に奔溢さして居る。薄暗く曇つた夕暮の底に、濁水の溢れ落つる白泡が、夢かのやうにぼんやり見渡される。恐ろしいやうな、面白いやうな、云ふに云はれない一種の強い刺撃に打たれた。
遠く龜戸方面を見渡して見ると、黒い水が漫々として大湖の如くである。四方に浮いてる家棟は多くは軒以上を水に沒して居る。成程洪水ぢやなと嗟嘆せざるを得なかつた。
龜戸には同業者が多い。未だ避難し得ない牛も多いと見え、そちこちに牛の叫び聲がして居る。暗い水の上を傳つて、長く尻聲を引く。聞く耳のせゐか溜らなく厭な聲だ。稀に散在して見える三つ四つの燈火が、殆ど水にひツついて、水平線の上に浮いてるかの如く、淋い光を漏して居る。
何か人聲が遠くに聞えるよと耳を立てゝ聞くと、助け舟は無いかア………助け舟は無いかア………と叫ぶのである。それも三回許りで聲は止んだ。水量が盛んで人間の騷ぎも壓せられてるものか、割合に世間は靜かだ。未だ宵の口と思ふのに、水の音と牛の鳴く聲の外には、餘り人の騷ぎも聞こえない。寥々として寒さうな水が漲つて居る。助け舟を呼んだ人は助けられたか否かも判らぬ。鐵橋を引返してくると、牛の聲は幽になつた。壯快な水の音が殆ど夜を支配して鳴つてる。自分は眼前の問題にとらはれて我知らず時間を費した。來て見れば乳牛の近くに若者達も居ず、我が乳牛は多くは安臥して食み返しをやつて居つた。
何事をするも明日の事、今夜は是でと思ひながら、主なき家の有樣も一見したく、自分は再び猛然水に投じた。道路よりも少く低い我家の門内に入ると足が地につかない。自分は泳ぐ氣味にして臺所の軒へ進み寄つた。
幸に家族の者が逃げる時に消し忘れたものらしく、洋燈《ランプ》が點して釣り下げてあつた。天井高く釣下げた洋燈の尻に殆ど水がついて居つた。床の上に昇つて水は乳まであつた。醤油樽、炭俵、下駄箱、上げ板、薪、雜多な木屑等有ると有るものが浮いて居る。どろりとした汚ない惡水が、身動きもせず、ひし/\と家一ぱいに這入つて居
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