捕えやりつつ擁護の任を兼ね、土を洗い去られて、石川といった、竪《たて》川の河岸を練り歩いて来た。もうこれで終了すると思えば心にも余裕ができる。
 道々考えるともなく、自分の今日の奮闘はわれながら意想外であったと思うにつけ、深夜十二時あえて見る人もないが、わがこの容態はどうだ。腐った下の帯に乳鑵二箇を負ひ三箇のバケツを片手に捧げ片手に牛を牽いている。臍《へそ》も脛《はぎ》も出ずるがままに隠しもせず、奮闘といえば名は美しいけれど、この醜態は何のざまぞ。
 自分は何の為にこんな事をするのか、こんな事までせねば生きていられないのか、果なき人生に露のごとき命を貪《むさぼ》って、こんな醜態をも厭わない情なさ、何という卑しき心であろう。
 前の牛もわが引く牛も今は落ちついて静かに歩む。二つ目より西には水も無いのである。手に足に気くばりが無くなって、考えは先から先へ進む。
 超世的詩人をもって深く自ら任じ、常に万葉集を講じて、日本民族の思想感情における、正しき伝統を解得《かいとく》し継承し、よってもって現時の文明にいささか貢献するところあらんと期する身が、この醜態は情ない。たとい人に見らるるの憂いがないにせよ、余儀なき事の勢いに迫ったにせよ、あまりに蛮性の露出である。こんな事が奮闘であるならば、奮闘の価は卑しいといわねばならぬ。しかし心を卑しくするのと、体を卑しくするのと、いずれが卑しいかといえば、心を卑しくするの最も卑しむべきはいうまでも無いことである。そう思うて見ればわが今夜の醜態は、ただ体を卑しくしたのみで、心を卑しくしたとはいえないのであろうか。しかし、心を卑しくしないにせよ、体を卑しくしたその事の恥ずベきは少しも減ずる訳ではないのだ。
 先着の伴牛《ともうし》はしきりに友を呼んで鳴いている。わが引いている牛もそれに応じて一声高く鳴いた。自分は夢から覚《さ》めた心地《ここち》になって、覚えず手に持った鼻綱を引詰《ひきつ》めた。

       四

 水は一日に一寸か二寸しか減じない。五、六日経っても七寸とは減じていない。水に漬《つか》った一切《いっさい》の物いまだに手の着けようがない。その後も幾度《いくたび》か雨が降った。乳牛は露天《ろてん》に立って雨たたきにされている。同業者の消息もようやく判って来た。亀戸の某《なにがし》は十六頭殺した。太平《たいへい》町の某は十四頭を、大島町の某は犢《こうし》十頭を殺した。わが一家の事に就いても種々の方面から考えて惨害の感じは深くなるばかりである。
 疲労の度が過ぐればかえって熟睡を得られない。夜中幾度も目を覚す。僅かな睡眠の中にも必ず夢を見る。夢はことごとく雨の音水の騒ぎである。最も懊悩に堪えないのは、実際雨が降って音の聞ゆる夜である。わが財産の主脳であるところの乳牛が、雨に濡れて露天に立っているのは考えるに堪えない苦しみである。何ともたとえようのない情《なさけ》なさである。自分が雨中を奔走するのはあえて苦痛とは思わないが、牛が雨を浴みつつ泥中に立っているのを見ては、言語にいえない切《せつ》なさを感ずるのである。
 若い衆は代り代り病気をする。水中の物もいつまで捨てては置けず、自分の為すべき事は無際限である。自分は日々朝|草鞋《わらじ》をはいて立ち、夜まで脱ぐ遑《いとま》がない。避難五日目にようやく牛の為に雨掩いができた。
 眼前の迫害が無くなって、前途を考うることが多くなった。二十頭が分泌した乳量は半減した上に更に減ぜんとしている。一度減じた量は決して元に恢復せぬのが常である。乳量が恢復せないで、妊孕《にんよう》の期を失えば、乳牛も乳牛の価格を保てないのである。損害の程度がやや考量されて来ると、天災に反抗し奮闘したのも極めて意義の少ない行動であったと嘆ぜざるを得なくなる。
 生活の革命……八人の児女《じじょ》を両肩に負うてる自分の生活の革命を考うる事となっては、胸中まず悲惨の気に閉塞されてしまう。
 残余の財を取纏めて、一家の生命を筆硯に托そうかと考えて見た。汝《なんじ》は安心してその決行ができるかと問うて見る。自分の心は即時に安心ができぬと答えた。いよいよ余儀ない場合に迫って、そうするより外に道が無かったならばどうするかと念を押して見た。自分の前途の惨憺たる有様を想見するより外《ほか》に何らの答を為し得ない。
 一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶起《けっき》して乳搾《ちちしぼ》りに手をかさねばならぬ。天気がよければ家内らは運び来った濡れものの仕末に眼の廻るほど忙しい。
 家浮沈の問題たる前途の考えも、措《お》き難い目前の仕事に逐《お》われてはそのままになる。見舞の手紙見舞の人、一々応答するのも一仕事である。水の家にも一日に数回見廻ることもある。夜
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