群であった。大人はもちろん大きい子供らはそれぞれ持物《もちもの》がある。五ツになるのと七ツになる幼きものどもが、わがままもいわず、泣きもせず、おぼつかない素足《すあし》を運びつつ泣くような雨の中をともかくも長い長い高架の橋を渡ったあわれさ、両親の目には忘れる事のできない印象を残した。
 もう家族に心配はいらない。これから牛という事でその手配にかかった。人数が少くて数回にひくことは容易でない。二十頭の乳牛を二回に牽くとすれば、十人の人を要するのである。雨の降るのにしかも大水の中を牽くのであるから、無造作には人を得られない。某氏《なにがしし》の尽力によりようやく午後の三時頃に至って人を頼み得た。
 なるべく水の浅い道筋を選ばねばならぬ。それで自分は、天神川の附近から高架線の上を本所《ほんじょ》停車場に出て、横川に添うて竪川《たてかわ》の河岸《かし》通を西へ両国に至るべく順序を定《さだ》めて出発した。雨も止んで来た。この間の日の暮れない内に牽いてしまわねばならない。人々は勢い込んで乳牛の所在地へ集った。
 用意はできた。この上は鉄道員の許諾《きょだく》を得、少しの間線路を通行させて貰わねばならぬ。自分は駅員の集合してる所に到って、かねて避難している乳牛を引上げるについてここより本所停車場までの線路の通行を許してくれと乞うた。駅員らは何か話合うていたらしく、自分の切願に一顧《いっこ》をくれるものも無く、挨拶もせぬ。
 いかがでしょうか、物の十分間もかかるまいと思いますから、是非お許しを願いたいですが、それにこのすぐ下は水が深くてとうてい牛を牽く事ができませんから、と自分は詞《ことば》を尽《つく》して哀願した。
 そんな事は出来ない。いったいあんな所へ牛を置いちゃいかんじゃないか。
 それですからこれから牽くのですが。
 それですからって、あんな所へ牛を置いて届けても来ないのは不都合じゃないか。
 無情冷酷……しかも横柄《おうへい》な駅員の態度である。精神興奮してる自分は、癪《しゃく》に障《さわ》って堪《たま》らなくなった。
 君たちいったいどこの国の役人か、この洪水が目に入らないのか。多くの同胞が大水害に泣いてるのを何と見てるか。
 ほとんど口の先まで出たけれど、僅かにこらえて更に哀願した。結局避難者を乗せる為に列車が来るから、帰ってからでなくてはいけないということであった。それならそうと早くいってくれればよいのだ。そうして何時頃来るかといえば、それは判らぬという。そのじつ判っているのである。配下の一員は親切に一時間と経ない内に来るからと注意してくれた。
 かれこれ空しく時間を送った為に、日の暮れない内に二回牽くつもりであったのが、一回牽き出さない内に暮れかかってしまった。
 なれない人たちには、荒れないような牛を見計《みはか》らって引かせることにして、自分は先頭《せんとう》に大きい赤白斑《あかしろぶち》の牝牛《めうし》を引出した。十人の人が引続いて後から来るというような事にはゆかない。自分は続く人の無いにかかわらず、まっすぐに停車場へ降りる。全く日は暮れて僅かに水面の白いのが見えるばかりである。鉄橋の下は意外に深く、ほとんど胸につく深さで、奔流しぶきを飛ばし、少しの間流れに遡《さかのぼ》って進めば、牛はあわて狂うて先に出ようとする。自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水に咽《む》せて顔を正面《まとも》に向けて進むことはできない。ようやく埒《らち》外に出れば、それからは流れに従って行くのであるが、先の日に石や土俵を積んで防禦した、その石や土俵が道中に散乱してあるから、水中に牛も躓《つまず》く人も躓く。
 わが財産が牛であっても、この困難は容易なものでないにと思うと、臨時に頼まれてしかも馴れない人たちの事が気にかかるのである。自分はしばらく牛を控《ひか》えて後から来る人たちの様子を窺うた。それでも同情を持って来てくれた人たちであるから、案じたほどでなく、続いて来る様子に自分も安心して先頭を務《つと》めた。半数十頭を回向院の庭へ揃えた時はあたかも九時であった。負傷した人もできた。一回に恐れて逃げた人もできた。今一回は実に難事となった。某氏の激励至らざるなく、それでようやく欠員の補充もできた。二回目には自分は最後に廻った。ことごとく人々を先に出しやって一渡り後を見廻すと、八升入の牛乳鑵が二つバケツが三箇《みっつ》残ってある。これは明日に入用の品である。若い者の取落したのか、下の帯一筋あったを幸に、それにて牛乳鑵を背負《せお》い、三箇のバケツを左手にかかえ右手に牛の鼻綱《はなづな》を取って殿《しんがり》した。自分より一歩先に行く男は始めて牛を牽くという男であったから、幾度か牛を手離してしまう。そのたびに自分は、その牛を
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