と一時に胸に湧《わ》き返った。
 さりとて怒ってばかりもおられず、憎んでばかりもおられず、いまいましく片意地に疳張《かんば》った中にも娘を愛する念も交《まじ》って、賢いようでも年が若いから一筋に思いこんで迷ってるものと思えば不愍《ふびん》でもあるから、それを思い返させるのが親の役目との考えもないではない。
 夕飯過ぎた奥座敷には、両親と佐介と三人|火鉢《ひばち》を擁していても話にはずみがない。
「困ったあまっ子ができてしまった」
 天井を見て嘆息するのは父だ。
「おとよはおとッつさんの気に入りっ子だから、おとッつさんの言うことなら聞きそうなものだがな」
「お前こんな話の中でそんなこと言うもんじゃねいよ」
「とよは一体おれの言うことに逆らったことはないのに、それにこの上ないえい嫁の口だと思うのに、あんなふうだから、そりゃ省作の関係からきてるに違いない。お前女親でいながら、少しも気がつかんということがあるもんか」
「だってお前さん、省作が深田を出たといってからまだ一月ぐらいにしかならないでしょう。それですからまさかその間にそんな事があろうとは思いませんから」
「おッ母《か》さん、人の噂《うわさ》では省作が深田を出たのはおとよのためだと言いますよ」
「ほんとにそうかしら」
「実にいまいましいやつだ。婿にももらえず嫁にもやれずという男なんどに情を立ててどうするつもりでいやがるんだろ、そんなばかではなかったに。惜しい縁談だがな、断わっちまう、明日|早速《さっそく》断わる。それにしてもあんなやつ、外聞悪くて家にゃ置けない、早速どっかへやっちまえ、いまいましい」
「だってお前さん、まだはっきりいやだと言ったんじゃなし、明日じゅうに挨拶《あいさつ》すればえいですから、なおよくあれが胸も聞いてみましょう。それに省作との関係もです、嫁にやるやらぬは別としても糺《ただ》さずにおかれません」
「なあにだめだだめだ、あの様子では……人間もばかになればなるものだ、つくづく呆《あき》れっちまった。どういうもんかな、世間の手前もよし、あれの仕合せにもなるし、向うでは懇望なのだから、残念だなあ」
 父はよくよく嘆息する。
「だから今一応も二応も言い聞かせてみてくださいな」
「おとよの仕合せだと言っても、おとよがそれを仕合せだと思わないで、たって厭《いや》だと言うなら、そりゃしようがないでしょう」
「だれの目にも仕合せだと思うに、それをいわれもなく、両親の意に背くような、そんな我儘《わがまま》はさせられないよ」
「させられないたって、おッ母さんしようがないよ」
「佐介、ばかいいをするな、おまえなどまでもそんな事いうようだから、こんな事にもなるのだ」
「わが身の一大事だから少し考えさせてくださいと言うのを、なんでもかでもすぐ承知しろと言うのはちっとひどいでしょう」
「それでは佐介、きさまもとよを斎藤へやるのは不同意か」
「不同意ではありませんけれど、そんなに厭だと言うならと思うんです。おとよの肩を持って言うんじゃありません。おとッつさんのは言い出すとすぐ片意地になるから困る」
「なに……なにが片意地なもんか。とよのやつの厭だと言うにゃいわくがあるからだ、厭だとは言わせられないんだ」
「佐介、もうおよしよ、これでは相談にはなりゃしない。ねいおまえさん、お千代がよくあれの胸を聞くはずですから、この話は明日にしてください。湯がさめてしまった、佐介、茶にしろよ」
 父はますますむずかしい顔をしている。なるほど平生《へいぜい》おれに片意地なところはある、あるけれども今度の事は自分に無理はない、されば家じゅう悦《よろこ》んで、滞りなく纏《まと》まる事と思いのほか、本人の不承知、佐介も乗り気にならぬという次第で父は劫《ごう》が煮えて仕方がない、知らず知らず片意地になりかけている。呆《あき》れっちまった、どうしてあんなにばかになったか、もう駄目《だめ》だ、断わってしまう、こう口には言っても、自分の思い立った事を、どんな場合にもすぐ諦《あきら》めてよすような人ではない。いろいろ理屈をひねくって根気よく初志を捨てないのがこの人の癖である、おとよはこれからつらくなる。
 お千代はそれほど力になる話相手ではないが悪気《わるぎ》のない親切な女であるから、嫁《よめ》小姑《こじゅうと》の仲でも二人は仲よくしている。それでお千代は親切に真におとよに同情して、こうなって隠したではよくないから、包まず胸を明かせとおとよに言う。おとよもそうは思っていたのであるから、省作との関係も一切明かしたうえ、
「わたしは不仕合せに心に染まない夫を持って、言うに言われないよくよく厭《いや》な思いをしましたもの、懲りたのなんのって言うも愚かなことで……なんのために夫を持ちます、わたしは省作という人がないにしても、心の
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