たとえ》にいう通り、婿ちもんはいやなもんよ。それに省作君などはおとよさんという人があるんだもの、清公に聞かれちゃ悪いが、百俵付けがなんだい、深田に田地が百俵付けあったってそれがなんだ。婿一人の小遣《こづか》い銭にできやしまいし、おつねさんに百俵付けを括《くく》りつけたって、体《からだ》一つのおとよさんと比べて、とても天秤《てんびん》にはならないや。一万円がほしいか、おとよさんがほしいかといや、おいら一秒間も考えないで……」
「おとよさんほしいというか、嬶《かかあ》にいいつけてやるど、やあいやあい」
で話はおしまいになる。おはまが帰って一々省作に話して聞かせる。そんな次第だから省作は奥へ引っ込んでて、夜でなけりゃ外へ出ない。隣の人たちにもどうも工合が悪い。おはまばかり以前にも増して一生懸命に同情しているけれど、向うが身上《しんしょう》がえいというので、仕度にも婚礼にも少なからぬ費用を投じたにかかわらず、四月《よつき》といられないで出て来た。それも身から出た錆《さび》というような始末だから一層兄夫婦に対して肩身が狭い。自分ばかりでなく母までが肩身狭がっている。平生《へいぜい》ごく人のよい省作のことゆえ、兄夫婦もそれほどつらく当たるわけではないが、省作自ら気が引けて小さくなっている。のっそり坊も、もうのっそりしていられない。省作もようやく人生の苦労ということを知りそめた。
深田の方でも娘が意外の未練に引かされて、今一度親類の者を迎えにやろうかとの評議があったけれど、女親なる人がとても駄目《だめ》だからと言い切って、話はいよいよ離別と決定してしまった。
上総《かずさ》は春が早い。人の見る所にも見ない所にも梅は盛りである。菜の花も咲きかけ、麦の青みも繁《しげ》りかけてきた、この頃の天気続き、毎日|長閑《のどか》な日和《ひより》である。森をもって分《わか》つ村々、色をもって分つ田園、何もかもほんのり立ち渡る霞《かすみ》につつまれて、ことごとく春という一つの感じに統一されてる。
遥《はる》かに聞ゆる九十九里《くじゅうくり》の波の音、夜から昼から間断なく、どうどうどうどうと穏やかな響きを霞の底に伝えている。九十九里の波はいつでも鳴ってる、ただ春の響きが人を動かす。九十九里付近一帯の村落に生《お》い立ったものは、この波の音を直《ただ》ちに春の音と感じている。秋の声ということばがあるが、九十九里一帯の地には秋の声はなくてただ春の音がある。
人の心を穏やかに穏やかにと間断なく打ちなだめているかと思われるは、この九十九里の春の音である。幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総《かずさ》下総《しもうさ》の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。
省作はその温良な青年である。どうしたって省作を憎むのは憎む方が悪いとしか思われぬ。省作は到底春の人である。慚愧《ざんき》不安の境涯《きょうがい》にあってもなお悠々《ゆうゆう》迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨《はるさめ》の曇りであって雪気《ゆきげ》の時雨《しぐれ》ではない。
いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手《おおで》を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分がよくないから深田を追い出されたように噂《うわさ》をする。いつのまか自分でも妙に失態をやったような気になった。臆病《おくびょう》に慚愧心《ざんきしん》が起こって、世間へ出るのが厭《いや》で堪《たま》らぬ。省作の胸中は失意も憂愁もないのだけれど、周囲からやみ雲にそれがあるように取り扱われて、何となし世間と隔てられてしまった。それでわれ知らず日蔭者《ひかげもの》のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然《はっきり》とはわからないが、もう働いたらよかろうともえ言わないで好きにさしておく。
この間におはまは小さな胸に苦労をしながら、おとよ方《かた》に往復して二人《ふたり》の消息を取り次いだ。省作は長い長い二回の手紙を読み、切実でそうして明快なおとよが心線に触れたのである。
萎《しお》れた草花が水を吸い上げて生気を得たごとく、省作は新たなる血潮が全身にみなぎるを覚えて、命が確実になった心持ちがするのである。
「失態も糸瓜《へちま》もない。世間の奴《やつ》らが何と言ったって……二人の幸福は二人で作る、二人の幸福は二人で作る、他人《ひと》の世話にはならない」
こう独言《ひとりごと》を言いつつ省作は感に堪《た》えなくなって、起《た》って座敷じゅうをうろうろ歩きをするのである。省作はもう腹
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