草のまわりで蝶《ちょう》や蜻蛉《とんぼ》を追いまわしているようすだ。予は自分で奥の雨戸を繰りやって、あたりをかたづけた。姉もようやく一きまりをつけて奥へくる。例のとおり改まってばかていねいに挨拶《あいさつ》をする。そして茶をわかすからといって立った。
 蚊帳《かや》の釣り手は三|隅《すみ》だけはずして、一隅はそのままむちゃくちゃに片寄せてある。夜具も着物も襖《ふすま》の隅へ積み重ねたままである。朝起きたなりに、座敷の掃除もせぬらしい。昔からかかってる晴耕雨読《せいこううどく》の額も怪しく蜘蛛《くも》の巣が見える。床の間にはたたんだ六枚折りの屏風《びょうぶ》が立てかけてあって、ほかに何やかやごてごてと置いてある。みえも飾りもないありさまである。
 若夫婦は四、五年東京に出ているところへ、三年前に老母がなくなり、この一月また八十五歳の父が永眠した。姉夫婦はたしか六十に近いだろう、家のさびしくなったも無理はない。予はけっしていやな心持ちはせぬけれど、両親もずいぶん達者なほうだったし、姉夫婦は働き盛りで予らの家《うち》におったころには、この大きな家もどよむばかりであったのだ。それにくらべると今のわが家は雪にとじこもった冬の心持ちがする。兄は依然として大酒を飲み、のっそりぽんとした顔をして、いつも変わらずそれほどに年寄りじみないが、姉のおとろえようは驚くばかり、まるでしわくちゃな老婆になってしまってる。
 予はしばらく背を柱に寄せて考えるともなく、種々に思いが動く。姉の老衰《ろうすい》を見るにつけ、自然みずからをかえりみると、心細さがひしひしと身に迫りくる。
「わたしが十六の年にこの家へ来たその秋にお前が生まれた。それで赤ん坊のときから手にかけたせいか、兄弟の中でも、お前がいちばんなつかしい」
 姉はいつでも[#「いつでも」は底本では「いっでも」]そういって予に物語った。その姉がもはやあのとおり年寄りになったのに、この一月までも達者でおられた父さえ今は永劫《えいごう》にいなくなられた。こう思いくると予はにわかに取り残されものになったかのごとく、いやにわが身のさびしみをおぼえる。ついきのうまでも、まだまだとのみ先を頼むの念は強かったに、今はわが生の余喘《よぜん》も先の見えるような気がしてならない。
 予はもう泣きたくなった。思いきり声を立てて泣いてみようかと思う。予の眼はとうに曇っていたのである。
 子どもたちは何を見つけたかしきりにおもしろがって笑い興じている。その笑い声は真にはればれしくいきいきとして、何ともいいようなく愉快そうな声である。そうしてその声はたしかに人を闇黒より呼び返す声である。予は実に子どもたちの歓呼の叫びに蘇生《そせい》して、わずかに心の落ちつきを得たとき、姉は茶をこしらえて出てきた。茶受けは予の先に持参した菓子と、胡瓜《きゅうり》の味噌漬け雷干《かみなりぼし》の砂糖漬けであった。予が好きだということを知っての姉の用意らしい。
「よくよく何もなくてただほんの喉《のど》しめしだよ。子どもらはどうしたろ。とうもろこしをとってみたらまだ早くてね」
 姉はいそいそとして縁から子どもたちを呼び迎える。ふたりは草花を一|束《たば》ずつ持って上がってくる。
「そんなに花をたくさんとっちゃいかんじゃないか」
「えいやね、東京では花だってかってにゃとれないだろう。いくらとってもえいよ、とればあとからいくらでも生《は》えるから。たァちゃんにあァちゃんだったっけね。ううん九つに十……はァそんなになるかい」
「お前たちその花の名を知ってるかい」
「知らない……お父さん。なんというお花」
「うんまるい赤いのが千日草。そっちのが浦島草」
 子どもたちは花がうれしくて物もたべたがらない。ふたりは互いに花を見せ合って楽しんでいる。
「菓子もいらない。そんなにこの花がえいのかい。田舎《いなか》の子どもと違って、東京の子どもは別だわな」
「なにおんなじさ。ずいぶん家ではあばれるのさ」
 やがて子どもらはまた出てしまう。年はとっても精神はそれほどには変わらない。姉はただもうなつかしさが目にあふれてみえる。平生はずいぶん出来不出来《できふでき》のある人で、気むつかしい人だが、こうなると何もかもない。
「くるならくると一言いうてよこせば何とかしようもあったに。ほんとにしようがないなこれでは。養蚕さえやられねば、まさかこんなでもないだが。まァこのざまを見てくっだいま」
「何のしようがいるもんですか。多分忙しいんだろうから、実は今夜も泊まらずに、すぐ片貝へと思ったけれど、それもあんまりかと思ってね……」
「そうともまた、いくら忙しいたって、一晩も話さないでどうするかい。……きょうはまたなんというえい日だろうか。子どもたちがあァして庭に騒いで遊んでると、ようよう人
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