みのつかないほど極度の不安を感ずるのだ。
それが君、年のまだ若い夫婦ふたりの時代であるならば、よし家を覆滅させたところで、再興のくふうに窮するようなこともないから、不安の感じもそれほど深刻ではないが、夫婦ふたりの四ツの手に八人の子どもをかかえているという境遇であってみると、その深刻な感じがさらにどれだけ深刻であるか。君たちにもたいていは想像がつくだろう。
七ツ八ツくらいまでは子どももほんの子どもだ。まだ親の苦労などはわからなく、毎日曇りのない元気な顔に嬉々《きき》と遊戯にふけっているが、それらの姉どもはもう親の不安を心得きっている。親の心ではなるたけ子どもらには苦労もさせたくないから、できる限り知らさないようにしてはいるものの、不意にくる掛取りのいいわけを隠してすることもできないから、実は隠そうとしても隠しきれない。親の顔色を見て、口にそうとは言わなくともさえない顔色して自然元気がない。子どもながら両親の顔色や話しぶりに、目を泣き耳を立てるというふうであるのだ。
こうなると君、人間というやつはばかに臆病になるものだよ、何ごとにもおじ気がついて、埓《らち》もなくびくびくするのだ。
こんなことじゃいかん、あまりひとすじに思い込むのは愚だ。不景気も要するに一時の現象だから一年も二年も続く気づかいはない。ともかく一月《ひとつき》一月でもどうにかやって行ければ、そのうち息をつくときもあるだろう。
だれでも考えそうな、たわいもない理屈を思い出して、一時の気安めになるのも、実は払わねばならぬものは払い、言い延《の》べのできるものは言い延べてしまった、月と月との間ぎわ少しのあいだのことだ。収入はまた先月よりも減じた。支払いは引き残りがあるからむろん先月よりも多い。一時のつけ元気で苦しさをまぎらかしたのも、姑息《こそく》の安《やすき》を偸《ぬす》んでわずかに頭を休めたのも月末という事実問題でひとたまりもなく打ちこわされてしまう。
臆病心がいよいよこうじてくると、世の中のすべての物がことごとく自分を迫害するもののように思われる。強風が吹いて屋根の隅《すみ》でも損ずれば、風が意地わるく自分を迫害するように感ずる。大雨が降る傘《かさ》を買わねばならぬ。高げたを買わねばならぬといえば、もう雨が恐ろしいもののように思われる。同業者はもちろん仇敵《きゅうてき》だ。すべての商人はみな不親切に思われる。汽車の響き、電車の音、それも何となく自分をおびやかすように聞こえるのだ。平生|懇意《こんい》に交際しているあいだがらでも、向こうに迷惑をかけない限りの懇意で少しでも損をかけ、もしくは迷惑をさせたらば、その日から懇意な関係は絶えてしまう。けっきょく自分を離れないものは、世の中に妻と子とばかりである。
君はかならずいうだろう、「そりゃあまりに極端な考えだ、誇張がありすぎる」と。そういっても実際の感じだから誇張でも何でもない。不自由をしたことのない人には不自由な味はわからぬ。獄にはいった人でなければ獄中の心持ちはわからない。
言い延べも限りがある。とどこおった払いはいつかは払わねばならぬ。何のくふうもなく食い込んでおれば家をこわして炊《た》くようなものだ。たちまち風雨のしのぎがつかなくなることは知れきっている。
くふうといって別に変わったくふうのありようもないから、友人から金を借りようと決心したのだ。金に困って友人から金を借りたというだけならば、もとより問題にはならない。しかし食い込んでゆく補給に借りた金が容易に返せるはずのものでない。それは僕も知っておった。容易に返せないと知っておっても、借らねばならぬことになった。
そこであらたな苦しみをみずから求めることになった。何ほど親しい友人にでも、容易に返せないが金を貸せとはいえない。そういえば友人もおそらくは貸さない。つまるところはいつごろまでには返すからと友人をあざむくことになるのだ。友人をあざむく……道徳上の大罪を承知で犯《おか》すように余儀なくされた。友人の好意で一面の苦しみはやや軽くなったけれど精神上に受けた深い疵傷《きず》は長く自分を苦しめることになった。罪を知っているだけ苦痛は層一層苦痛だ。この苦痛からまぬがれたいばかりでも、借りた金はいっときも早く返したい。寝る目のねざめにも、ああ返したいと心が叫んでいるのだ。
恐るべきものではないか、一度金を借りたとなると、友人はもはや今までの友人でなくなる。友人の関係と債主との関係と妙に混交して、以前のようなへだてなく無造作《むぞうさ》な親しみはいつのまにか消えてゆく。こういう場合の苦痛はだれに話して聞かせようもない。
自分はどこまでも友人の好意に対し善意と礼儀とを失なわないようにつとめる。考えてみると自分の良心をあざむいてまで、いわゆるつとめる
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