ということを実行する。けれども友人のほうはあんがい平気だ。自分からは三度も訪問しても友人は一度も来ないようなことが多い。こうなると友人という情義があるのかないのかわからなくなってしまう。腹の底の奥深い所に、怨嗟《えんさ》の情が動いておっても口にいうべき力のないはかない怨《うら》みだ。交際上の隠れた一種の悲劇である。友人のほうでは決して友人に金を貸すものではないと後悔しているのじゃないかと思うてはいよいよたまらない。友人には掻《か》きちぎるほどそむきたくないが、友人はしだいに自分を離れる[#「離れる」は底本では「難れる」]。罪がことごとく自分にあるのだから、懊悩《おうのう》のやるせがないのだ。
あぶない道を行く者は、じゅうぶんに足をふんばり背たけを伸ばして歩けないのが常だ。心をまげ精神を傷つけ一時を弥縫《びほう》した窮策は、ついに道徳上の罪悪を犯すにいたった。偽《いつわ》りをもって始まったことは、偽りをもって続く。どこまでも公明に帰ることはできない。どう考えても自分はりっぱな道徳上の罪人だ。人なかで高言のできない罪人だ。
君の目から見たらば、さだめて気の毒にも見えよう、おかしくも見えよう。しかし君人間は肉体上に容易に死なれないごとく、精神上にもまた容易に死なれないものだ。
僕は今は甘んじて道徳上の罪人となったけれど、まだ精神上の悪人だとは自覚ができない。君、悪人が多く罪を犯すか、善人が多く罪を犯すか、悪人もとより罪を犯すに相違ないが善人もまた多く罪を犯すものだ。君は哲学者であるから、こういう問題は考えているだろう。
ある場合においては善人かえって多く罪を犯すことがあるまいか。
善人の罪を犯さないのは、その善人なるがゆえでなく、決行の勇気を欠くためにしかるのではあるまいか。少しく我田引水に近いが僕の去年の境遇では、僕がどこまでも精神上の清潔を保持するならば、僕の一家は離散するのほかはなかったし罪悪と知って罪悪を犯した苦しさ悲しさは、いまさら繰り返す必要もない。一家十人の離散が救われたと思えば、僕は罪人たるに甘んじねばならぬ。君もこの罪はゆるしてくれるだろう。僕の友人としての関係はよし旧のごとくならずとするも僕の罪だけはゆるしてくれるだろう。
君、僕の懊悩はまだそればかりではない。僕の生活は内面的にも外面的にも、矛盾と矛盾で持ち切っているのだ。趣味の上からは高潔純正をよろこび、高い理想の文芸を味おうてる身で、生活上からは凡人も卑《いや》しとする陋劣《ろうれつ》な行動もせねばならぬ。八人の女の子はいつかは相当に婚嫁《こんか》させねばならぬ。それぞれ一人前の女らしく婚嫁させることの容易ならぬはいうまでもない。この重い重い責任を思うと五体もすくむような心持ちがする。しかるにもかかわらず、持って生まれた趣味性の嗜好《しこう》は、君も知るごとく僕にはどうしても無趣味な居住はできないのだ。恋する人は、理の許す許さぬにかかわらず、物のあるなしにかかわらず恋をする。理が許さぬから物がないからとて忍ぶことのできる恋ならば、それは真の恋ではなかろう。恋の悲しみもそこにある。恋の真味もそこにある。僕の嗜好《しこう》もそれと同じであるから苦しいのだ。嗜好に熱があるだけ苦しみも深い。
友人の借銭もじゅうぶんに消却し得ず、八人の子のしまつも安心されない間で、なおときどき無要なもの好きをするのがそれだ。
この徹頭徹尾《てっとうてつび》矛盾した僕の行為が、常に僕を不断の悔恨と懊悩とに苦しめるのだ。もっとも僕の今の境遇はちょうど不治の病いにわずらっている人のごとくで、平生苦悩の絶ゆるときがないから、何か他にそれをまぎらわすべき興味的刺激がなければ生存にたえないという自然の要求もあるだろう。
矛盾混乱なにひとつ思うようにならず、つねに無限の懊悩に苦しみながらも、どうにか精神的の死滅をまぬかれて、なお奮闘《ふんとう》の勇を食い得るのは、強烈な嗜好が、他より何物にも犯されない心苑《しんえん》を闢《ひら》いて、いささかながら自己の天地がそこにあるからであるとみておいてもらいたい。
自分で自分のする悲劇を観察し批判し、われとわが人生の崎嶇《きく》を味わいみるのも、また一種の慰藉にならぬでもない。
それだけ負け惜しみが強ければ、まァ当分死ぬ気づかいもないと思っておってくれたまえ。元来人間は生きたい生きたいの悶躁《もんそう》でばかり動いている。そうしてどうかこうか生を寄するの地をつくっているものだ。ただ形骸《けいがい》なお存しているのに、精神早く死滅しているというようなことにはなりたくない。愚痴《ぐち》はこれくらいでやめるが、僕の去年は、ただ貧乏に苦しめられたばかりではなかった。
三
矛盾《むじゅん》した二つのことが、平気で並行されると
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