りょうひざ》を折って体をかがめるとひとしく横にころがってしまう。消毒の係りはただちに疵口《きずぐち》をふさぎ、そのほか口鼻|肛門《こうもん》等いっさい体液の漏泄《ろうせつ》を防ぐ手数《てすう》をとる。三人の牧夫はつぎつぎ引き出して適当の位置にすえる。三十分をいでずして十五、六頭をたおしてしまった。同胞姉妹が屍《しかばね》を並べてたおされているのも知らずに、牛はのそのそ引き出されてくる。子持ちの牛はその子を振り返り見てしきりに鳴くのである。屠手はうるさいともいわず、その牛を先にやってしまった。鳴きかけた声を半分にして母牛はおれてしまう。最も手こずったのは大きな牡牛《おうし》であった。牧夫ふたりがようやく引き出してきても、いくらかあたりの光景に気が立ったとみえ、どうかすると荒れ出そうとして牧夫を引きずりまわすのであった。屠手は進んで自分から相当の位置を作りつつ、すばやく一撃を加えた。今まで荒れそうにしていた大きい牡牛も、土手を倒したようにころがってしまった。警官や人夫やしばしば実行して来た人たちと見えて、牛を殺すなどは何とも思わぬらしい。あえて見るふうもなくむだ話をしている。
僕はむしろ惨状見るにたえないから、とうに出てしまおうとしたのだけれど、主人の顔に対して暇を告げるのが気の毒でたまらず、躊躇《ちゅうちょ》しながら全部の撲殺を見てしまった。評価には一時四十分間かかったが、屠殺は一時二十分間で終わってしまった。無愛想な屠手は手数料を受け取るや、話一つせずさっさと帰って行った。警官らはこれからが仕事だといって騒いでいる。牛はことごとく完全に消毒的手配をして火葬場へ運ぶのである。牛舎はむろん大々的消毒をせねばならぬ。
いままで雑然騒然、動物の温気に満ちていた牛舎が、たちまちしんとして寂莫たるように変じたのを見て、僕は自分もそれに引き入れられるような気分がして、もはや一時もここにいるにたえられなくなった。
僕は用意してきたあらたな衣服を着がえ、牛舎にはいった時着た衣服は、区役所の消毒係りの人にたくしてここを出た。むろんすぐに家へは帰られないから、一週間ばかり体を清めるためその夜のうちに国府津《こうづ》[#ルビの「こうづ」は底本では「こうず」]まで行った。宿についても飲むも食うも気が進まず、新聞を見また用意の本など出してみても、異様に神経が興奮していて、気を移すことはできなかった。見てきた牛の形が種々に頭に映じてきてどうにもしかたがない。無理に酒を一口飲んだまま寝ることにした。
七日と思うてもとても七日はいられず三日で家に帰った。人の家のできごとが、ほとんどよそごとでないように心を刺激する。僕はよほど精神が疲れてるらしい。
静かに過ぎてきたことを考えると、君もいうようにもとの農業に返りたい気がしてならぬ。君が朝鮮へ行って農業をやりたいというのは、どういう意味かよくわからないが、僕はただしばらくでも精神の安静が得たく、帰農の念がときどき起こるのである。しかし帰農したらば安静を得られようと思うのが、あるいは一時の懊悩《おうのう》から起こるでき心かもしれない。
とにかく去年から今年へかけての、種々の遭遇によって、僕はおおいに自分の修業未熟ということを心づかせられた。これによって君が僕をいままでわからずにおった幾部分かを解してくれれば満足である。
底本:「野菊の墓他六篇」新学社文庫、新学社
1968(昭和43)年6月15日発行
1982(昭和57)年6月1日重版
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
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