。この春東京へは突如として[#「突如として」は底本では「突知として」]牛疫が起こった。いきおい猛烈にわが同業者を蹂躙《じゅうりん》しまわった。二カ月の間に千二百頭を撲殺したのである。僕の周囲にはさいわいに近くにないから心配も少ないが、毎日二、三枚ずつはかならずはがきの報告がくる。昨夜某の二十頭、けさ某の四十頭を撲殺|云々《うんぬん》と通じてくるのである。某の七十頭、某の九十頭など、その惨状は目に見えるようである。府内はいっさい双蹄獣《そうていじゅう》の出入往来を厳禁し、家々においてもできる限り世間との交通を遮断《しゃだん》している。動物界に戒厳令が行なわれているといってよい。僕はさいわいに危険な位置をいささか離れているけれど、大敵に包囲されている心地である。もっとも他人の火事を見物するような心持ちではいられないのはもちろんだ。
同業者間にはかねての契約がなり立っている。同業中不幸にし牛疫にかかった者のあった場合には何人《なんぴと》もその撲殺評価人たる依頼を拒まれぬということである。それで僕はついに評価人にならねばならぬ不幸が起こった。
深川警察署からの通知で、僕は千駄木町の知人某氏の牛疫撲殺に評価人として出張することとなった。僕ははじめて牛疫を見るという無経験者であるから、すこぶる気持ちは良くないがやむを得ないのだ。それに僕が評価人たることは、知人某氏のためにも利益になるのであるから、勇を鼓して出かけて行った。
日の暮れ暮れに某氏の門前に臨《のぞ》んでみると、警察官が門におって人の出入を誰何《すいか》している。門前には四十台ばかりの荷車に、それに相当する人夫がわやわや騒いでおった。刺《し》を通じて家にはいると、三人警部と茶を飲んでおった主人は、目ざとく自分を認めた。僕がいうくやみの言葉などは耳にもはいらず。
「やァとんだご迷惑で……とうとうやっちゃったよアハハハハハ」
と事もなげに笑うのであったが、茶碗《ちゃわん》を持った手は震えておった。女子どもはどうしたか見えない。巡査十四、五人、屠殺人、消毒の人夫、かれこれ四十人ばかりの人たちが、すこぶるものなれた調子に、撲殺の準備中であった。牛の運動場には、石灰をおびただしくまいて、ほとんど雪夜のさまだ。
僕は主人の案内でひととおり牛の下見《したみ》をする。むろん巡査がひとりついてくる。牛疫の牛というのは黒毛の牝牛赤|白斑《まだら》の乳牛である。見ると少しく沈欝《ちんうつ》したようすはしているが、これが恐るべき牛疫とは素人目《しろうとめ》には教えられなければわからぬくらいである。その余の三十余頭、少しも平生に変わらず、おのおの争うて餌をすすっている。
「こうしているのをいま少しすぎにみな撲殺してしまうのかと思うと、損得に関係なく涙が出る」
主人はいまさら胸のつかえたように打ち語るのであった。けさ分娩したのだという白牛は、白黒斑のきれいなわが子を、頭から背から口のあたりまで、しきりにねぶりまわしているなどは、いかにも哀れに思われた。牡牛のうめき声、子牛の鳴き声等あい混《こん》じてにぎやかである。いずれもいずれも最後の飼葉《かいば》としていま当てがわれた飼桶《かいおけ》をざらざらさも忙しそうに音をさせてねぶっている。主人は雇人《やといにん》に、
「これきりの飼葉だ、ねぶらせておけよ。桶も焼いてしまうのだ。かじってえい……」
主人の声はのどにつまるように聞こえた。僕は慰めようもなく、ただおおいに放胆《ほうたん》なことをいうて主人を励ました。
警視庁の獣医も来て評価人も規定どおり三人そろうたから、さっそくということで評価にかかった。一時四十分ばかりで評価がすむとまったく夜になった。警官連はひとりに一張《ひとはり》ずつことごとく提灯《ちょうちん》を持って立った。消毒の人夫は、飼料の残品から、その他牛舎にある器物のいっさいを運び出し、三カ所に分かって火をかけた。盛んに石油をそそいでかき立てる。一面にはその明りで屠殺にかかろうというのである。
牧夫は酒を飲んだ勢いでなければ、とても手伝っていられないという。主人はやむを得ず酒はもちろん幾分の骨折りもやるということで、ようやく牧夫を得心さした。警官は夜がふけるから早く始めろとどなる。屠手《としゅ》は屠獣所から雇うてきたのである。撲殺には何の用意もいらない。屠手が小さな斧《おの》に似た鉄鎚《てっつい》をかまえて立っているところへ、牧夫が牛を引いて行くのである。[#「行くのである。」は底本では「行くのである。。」]
最初に引き出したのは赤毛の肥《ふと》った牝牛《めうし》であった。相当の位置までくると、シャツにチョッキ姿の屠手は、きわめて熟練したもので、どすと音がしたかと思うと、牝牛は荒れるようすもなく、わずかに頭を振るかとみるまに両膝《
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