ます。鵜島はあのまえになります、ヘイ。あれ、いま鳥がひとつ低う飛んでましょう。そんさきにぽうっとした、あれが鵜でござります。まだ小《こ》一里でござりましょう」
 いよいよ霧がふかくなってきた。舟津も木立ちも消えそうになってきた。キィーキィーの櫓声となめらかな水面に尾を引く舟足と、立ってる老爺と座しておる予とが、わずかに消しのこされている。
 湖水の水は手にすくってみると玉のごとく透明であるが、打見た色は黒い。浅いか深いかわからぬが深いには相違ない。平生《へいぜい》見つけた水の色ではない、予はいよいよ現世《げんせ》を遠ざかりつつゆくような心持ちになった。
「じいさん、この湖水の水は黒いねー、どうもほかの水とちがうじゃないか」
「ヘイ、この海は澄んでも底がめいませんでござります。ヘイ、鯉も鮒もおります」
 老爺はこの湖水についての案内がおおかたつきたので、しばらく無言にキィーキィーをやっとる。予もただ舟足の尾をかえりみ、水の色を注意して、頭を空《くう》に感興《かんきょう》にふけっている。老爺は突然先生とよんだ。かれはいかに予を観察して先生というのか、予は思わず微笑した。かれは、なおかわいら
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