と櫓《ろ》の音がする。
ふりかえってみると、いまでた予の宿の周囲がじつにおもしろい。黒石でつつまれた高みの上に、りっぱな赤松《あかまつ》が四、五本森をなして、黄葉した櫟《くぬぎ》がほどよくそれにまじわっている。東側は神社と寺との木立ちにつづいて冬のはじめとはいえ、色づいた木の葉が散らずに[#「散らずに」は底本では「敢らずに」]あるので、いっそう景色がひきたって見える。
「じいさん、ここから見ると舟津はじつにえい景色だね!」
「ヘイ、お富士山はあれ、あっこに秦皮《とねりこ》の森があります。ちょうどあっこらにめいます。ヘイ。こっから東の方角でございます。ヘイ。あの村木立《むらこだ》ちでございます。ヘイ、そのさきに寺がめいます、森の上からお堂の屋根がめいましょう。法華《ほっけ》のお寺でございます。あっこはもう勝山《かつやま》でござります、ヘイ」
「じいさん、どうだろう雨にはなるまいか」
「ヘイ晴れるとえいけしきでござります、残念じゃなあ、お富士山がちょっとでもめいるとえいが」
「じいさん、雨はだいじょぶだろうか」
「ヘイヘイ、耳がすこし遠いのでござります。ヘイあの西山の上がすこし明るうござりますで、たいていだいじょうぶでござりましょう。ヘイ、わしこの辺《へん》のことよう心得てますが、耳が遠うござりますので、じゅうぶんご案内ができないが残念でござります、ヘイ」
「鵜島へは何里あるかい」
「ヘイ、この海がはば一里、長さ三里でござります。そのちょうどまんなかに島があります。舟津から一里あまりでござります」
人里を離れてキィーキィーの櫓声《ろせい》がひときわ耳にたつ。舟津の森もぼうっと霧につつまれてしまった。忠実な老爺は予の身ぶりに注意しているとみえ、予が口を動かすと、すぐに推測をたくましくして案内をいうのである。おかしくもあるがすこぶる可憐に思われた。予がうしろをさすと、
「ヘイあの奥が河口でございます。つまらないところで、ヘイ。晴れてればよう見えますがヘイ」
舟のゆくはるかのさき湖水の北側に二、三軒の家が見えてきた。霧がほとんど山のすそまでおりてきて、わずかにつつみのこした渚《なぎさ》に、ほのかに人里があるのである。やがて霧がおおいかくしそうなようすだ。予は高い声で、
「あそこはなんという所かい」
「ヘイ、あっこはお石《いし》でござります。あれでもよっぽどな一村でござり
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