河口湖
伊藤左千夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)片辺《かたべ》へおいて、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|木《ぼく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)散らずに[#「散らずに」は底本では「敢らずに」]
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段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの片辺《かたべ》へおいて、すこぶるていねいにおじぎをした女は宿の娘らしい。霜枯れのしずかなこのごろ、空もしぐれもようで湖水の水はいよいよおちついて見える。しばらく客というもののなかったような宿のさびしさ。
娘は茶をついで予《よ》にすすめる。年は二十《はたち》ばかりと見えた。紅蓮《ぐれん》の花びらをとかして彩色したように顔が美しい。わりあいに顔のはば広く、目の細いところ、土佐絵などによく見る古代女房《こだいにょうぼう》の顔をほんものに見る心持ちがした。富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式《てんぴょうしき》美人を見る、おおいにゆかいであった。
娘は、お中食《ちゅうじき》のしたくいたしましょうかといったきり、あまり口数をきかない、予は食事してからちょっと鵜島《うじま》へゆくから、舟をたのんでくれと命じた。
富士のすそ野を見るものはだれもおなじであろう、かならずみょうに隔世的夢幻《かくせいてきむげん》の感にうたれる。この朝予は吉田の駅をでて、とちゅう畑のあいだ森のかげに絹織の梭《ひ》の音を聞きつつ、やがて大噴火当時そのままの石の原にかかった。千年の風雨も化力《かりょく》をくわうることができず、むろん人間の手もいらず、一|木《ぼく》一|草《そう》もおいたたぬ、ゴツゴツたる石の原を半里あまりあるいた。富士はほとんど雲におおわれて傾斜|遠長《とおなが》きすそばかり見わたされる。目のさきからじきに山すそに連続した、三、四里もある草木《そうもく》あるいは石の原などをひと目に見わたすと、すべての光景がどうしてもまぼろしのごとく感ずる。
予はふかくこの夢幻の感じに酔うて、河口湖畔の舟津《ふなづ》へいでた。舟津の家なみや人のゆききや、馬のゆくのも子どもの遊ぶのも、また湖水の深沈《しんちん》としずかなありさまやが、ことごとく夢中の光景としか思えない。
家なみから北のすみがすこしく湖水へはりだした木立ちのな
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