やかなる月影がともり、燈がともり
岩と古い家家のある木の間に
老い朽ちる松島の影をはなち、濤をゆるめる
古雅な港がひつそりとして
北部日本の夜の繪を旅人の眉に懸げようと。

  月

はじめてこの藪と水との細路で
あの月影を發見した人は
どんなに深い情怨をおびて
はじめて月の光にうたれた娘たちを恐れたであらう
月はその半顏――片面しか見せもせず
何年も怒りつづけてゐる戀人のやうに
その光りは油も熱も煙もなく
かの女を見るものはおのづから發光して
死の色をした透明な愁ひをあび
それにふれたものはいつの間にか
うす紫の青い世界の者となり
つめたい光線の花束で
空間にしばりからげられてゐる
靜かな自然の女王の屍と
つれ立つて歩くやうになるではないか。

  月

ほんのりした空中の窓よ
あざやかな時間の運轉者が
せつせと月を洗ひ清めてゐるよ
旅行者よ、農夫よ、航海者よ
その頭の中に燈火をつけよ
日光をもたない囚人もぬす人も
いそいで美しい影の松火をともすがよい
月は自然の幽靈であるから
一つの眼のうちにこもつた幽情を
地上へ映しながら光と陰の文字をかくよ
きよらかな、清らかな
寂寥と光明の今宵の晴れた
ほんのりした空中の窓は開いてゐるよ。

  月

半圓形の天のほとりを
點《とも》り、ともり
月が私たちの頭上に
きれいな光線の航路を描くまへに
船長は月の齡を眺めようし
漁夫は月光と汐の時計を感じ
街道の漂流人は自然のランプを點すであらう
さあ、人人よ、月の前に出よう
われわれの日の光は萬人の火であるが
月は精靈を伴とするものの
ひつそりした燈明臺ではないか
月が大きく照りわたる晩ほど涙ぐましく
われわれの町や荒磯は
華やかな影の繪模樣となる時に
船長よ、漁夫よ、漂流人よ
われわれは自らの生涯を空中に高めて
幽かで、清涼なる光線の盃をあげ
われわれの靜かな影を愛さうではないか。

  月

村村の子供ら
みんなして靜かに月の前にたつたとき
小さい田舍の洗ひ場は
月の幻燈會の入口だと思ふがよい
色を帶びてゐる若い月が
太平洋をはなれると
白鷺や千鳥が青い隱れ家を與へられ
漁夫は水と空との
二重の燈明世界へはひつてゆくし
あんなにも清らかに帆裝した
光線の船が此方へやつてくるよ。

  月

月が娘らのやうに
あかるい海邊で化粧してゐるときは
わたしも喜んで感覺の扇をひらかう
しかし思はぬ木の間に月が出たときは
この村村の天然の釣ランプを
しづかに眺めるにとどめよう
田舍の月はひつそりとして
淋しい人は月の祭を好ましく思ひ
古い昔の世界に遊び
幽情をつくして端坐してゐよう
わたしはそこここと歩きながら
頭に幻をもてる人人にのみ
この清らかな光線の帽子をあづけよう。

  鮮かなる月の夕

わたしは外へ出る
昔の人たちがしたやうに
秋の夕の匂やかな靜まりにたへかねて
水に沈める花洋燈のやうな
ほのあかるい戸外から
木木のほとりにつづく田舍路へ、きよらかな竹原へ
幽かな月の色をゆるゆると愛して
透明な精神のシグナルのやうに
水の娘たちをほのかに思ひ
寂びつくした地球上の家家をはなれて
ほんのりした空中へ
氣病みに影つた私自身を靜かに吹かせようと。

  斷想

僕は感じまい、別れてしまつたといふ事を
いつ逢はれるかしれもしないし
だんだん變つてゆくあらゆる美と精神を
もう斷じて感じまい、思ふまい
匂やかな風のまま何の木とも知れないなかに
ひとり身をひそめて非情な水つぽいものとなり
いつもかはらぬ色やかな村村の春を感じて
決して街のありさまも
あのうす青い思ひのついてゐる神祕な生のいろを
感じまい、思ふまい。

  二つの繪

青藍色の朝となつたではないか
もう私はこの清洒な庭の菖蒲の中から
昆蟲のやうにぬけ出て行かうよ
艶やかだつた夜の繪は
ほんのりおまへの額に消えかかり
うすい涙のいろをもつた陰影が
ものうい晝の月影を映してゐるではないか
別れよう、別れよう
私はこれから又片田舍へ行つて
もう一つの冷たい戀人のやうな
あの寂寞や幽情を訪れようから。

  さやかなる日影

遠くはなれて起き伏しする日は
ちかく在る日にましてさやかなる情趣をかんじ
ほんのりもゆる柚の花の木陰など歩みては
美しかりし夜を思ひ、香氣ある風に濕り
晝の月影の空氣に吹かれちるを眺めつ
ほの青き金色とうす闇にもゆる葉かげの
午後のさびしき椅子を引きよせて
うつとりとした情愛をかすかに清め
六月の庭の影をひとりたのしみながら
何にもまして夏の風をいつぱいにつけて
海からでも來たやうな色どりを引き
夕暮いろの感情にぬれて來る人を
ただあてもなく待つてゐる。

  情怨

たとへば青紫いろの朝霧が
水にうつり、思想に照り
このぐるり[#「ぐるり」に傍点]の景觀をうつすりと

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